×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。













 大粒の雨が背中を撃つ。街中に降り注ぐその礫が背中に与える衝撃に、歯を食いしばって走った。跳ね
回る泥水は足に絡み付き、視界は白く霞んでいく。顔面を流れる冷たい雫を掌で乱暴に拭いながら、大神
は薄らと桃色に染まった西日が差し込む、砂埃の道を駆け上がって行く。街灯が一つずつ灯っていき、古
い巴里の街並がぼうっと浮かぶ。
 出来損ないの正義だけ、濡れた手に掴んでいた。
 黄昏に続く夜が北の丘、モンマルトルを目指す大神の行く手に深く広がっている。街灯が色濃くしてい
く夜はもう西からゆっくりと街に掛かっていた。八時を回り、日没は近い。革靴もズボンも重たく濡らし、
体中に服を貼り付けて雨の中をもがくよう走る肉を見下ろして、夜は叩き付ける雨音と共に迫る。
 街灯が点いて街中があの橙色に照らし出される前に、アパルトマンへと戻りたかった。そうして、雨を
理由にカーテンを閉じ、朝を迎えたかった。あの丘から、巴里を見渡したくない。ベストの下で跳ねるホ
ルスターが煩わしくて、上から握り締めた。大粒の雨は台風が近づいている時に似ていて、一粒一粒の形
が判る程だ。頭の芯まで濡れている。聳える坂道を駆ければ、雨水の川が足元で跳ねる。流れて行く誰か
の吸い殻が革靴の表面に付いた。
 息が珍しく上がっている。大神は立ち止まり、歩道に爪先を打ち付けた。煙草は名残惜しそうに黒ずん
だ数枚の葉を甲に残すと、石畳みの間に挟まった。その小さな肉体を、雨粒が打ち付ける。何度も、痙攣
するよう跳ねた。
 肩を叩く雨にもう冷たさを覚えない。あまりに濡れ過ぎた。夏に降る巴里の雨なら、しばらく待てばき
っと止む筈で、走り続ける理由も無い。額に垂れる水滴を手の甲で拭って、大神は閑散とした雨の夕暮れ
を歩いて行く。
 この雨の中、歩いているのは大神一人きりだった。空っぽの通りに二、三階にある部屋から幾つも明か
りが零れている。家庭の火は雨粒に映って大神の体に降り注いでは流れて行く。閉まった地階の商店が沈
黙を続けるのを横目に、大神の足は水たまりを踏む。
 この明かりは欠けている。戦いに巻き込まれて傷ついた人の分、自分の守れなかった人の分、自分には
解らないところで不足している。あのアパルトマンのどこか一室では、未だ入院しているという人の家族
が雨音を聞いているのだろう。
 もう、考えるのはやめよう。
 幾度目かの呟きを思い起こした。どれだけ懊悩してみようと、守れるのはこの出来損ないの正義しかな
い。思考はその事実を何度となく確認する作業にしかならない。生命の重さを量りに掛け築いてきた正義、
人の生命を奪って継ぎ接ぎしてきた正義だ。生命より尊重して来た、生命の上に立つ正義。隊員の命も、
他の人も、街の人も、皆の想いも、それでも守りきれない正義でしかなくとも、自分はこの正義を貫く存
在であり続けなければならない。例え、
「隊長!」
 鋭い声が響いた。足が自然と止まった。乱れていた息遣いが瞬時に引いて、雨が顔を叩く。通り過ぎた
坂の下を、大神は息を詰めて振り返った。
 例え、
「隊長! 何をしている!」
 雲の切れ目が緋色に染まっている。その片隅、閉まった商店の軒先で、グリシーヌが手を挙げていた。

 少女達をそのために削ろうとも。

「こんな強い雨の中、無理して走ることもなかろう。
 ずぶ濡れではないか。」
 左腕を腰に当て、グリシーヌは呆れた様子でハンカチを大神に差し出した。頭から冷たい雫が流れて来
るのを感じながら、大神は金糸で刺繍が施されたそのハンカチを受け取った。
「すまない、大丈夫かと思ったんだが。かなり雨脚が強くなってきて。」
 額を拭く大神の足元を見て、グリシーヌは顔を顰めた。茶色の長靴でも履いているかのように、泥が脛
まで跳ねている。
「貴公は・・・しかたのない奴だ。」
 グリシーヌは呟くと、手摺に軽く寄りかかった。煉瓦で作られた三段ばかりの階段は、今は閉じられた
木製のドアに続いている。金のプレートに目を凝らすと、理髪店と書いてあるのが読めた。
「髪でも切っていたのかい?」
 ドアに目配せして問うと、グリシーヌは首を振った。
「たまたまだ。」
 頭上に掛かる深緑の幌を風が揺らす。見える東の空は青に染まり、アパルトマンを宵闇に塗り潰そうと
していた。その帳に抗うようまた一つ部屋の明かりが灯り、厚いカーテンの間から光が滲む。
 雨は音と、街灯を過るその時だけ、二人の前に現れた。細かな飛沫が頬に触れる。大神は黙っているグ
リシーヌを見下ろした。彼女は前髪が少し濡れているだけで、足元も汚れてはいなかった。金色の髪は湿
気を孕んで、いつもより豊かな曲線を描いている。背けられた顔は人の失せた通りを見下ろしていた。こ
の道を下れば、オペラ・ガルニエに続いている。モンマルトルの丘は建物の影で見えない。
「ハンカチ、洗って返すよ。」
 伝えるとグリシーヌは曖昧に、Bonと答えた。少し不機嫌そうな横顔は紺になって行く空を映して白い。
大神は刺繍を傷つけないようにそっとハンカチの水を絞る。水音は雨よりもはっきりと耳に届いた。濡れ
た小指の先で震えている水滴には、空と街が逆さになって映り震えている。大神は息を詰めて、水滴が膨
らんで指先から落ちるのを見つめた。
「打ち合わせでロベリアともめたんだってね。
 何かあったのかい?」
 グリシーヌの横顔は髪に隠れていた。だがその右目がちらりとこちらを見た気がした。彼女は片肘を手
摺に凭れかけさせたまま、ため息混じりに答える。
「新しい演目についてだ。
 あやつは私の歌が気に入らないらしい。」
 大神はハンカチをズボンのポケットにねじ込んだ。濡れた革靴の中で、靴下と靴底が擦れて嫌な感触を
返す。冷えた声が胸の奥底から湧き出て広がった。その声を掻き消したくて、大神は音声を重ねる。
「どんな歌なんだい?」
 グリシーヌは短く答える。
「花火とのデュエットだ。」
 自分の目が、自然と丸く見開かれるのを感じた。デュエットであれば、巴里花組がフレンチカンカン以
外で共演する初めての演目が生まれるということだ。昼間、コクリコが来週水曜日が初演と言っていた。
「そうだったのか。」
 知らなかったよ、続く一言を大神は呑み込んだ。新演目の練習は以前からしていた筈なのに、自分のこ
とだけに捕われていて一度も気にかけていなかった。意味のない悩みに気を取られ、隊員達の変化にも気
付く事が出来ないなんてそう、隊長失格だ。自分がこのようで、どうして彼女達に団結を求められよう。
大神は息を引き絞った。
「それで、ロベリアとは。」
 皆が団結出来ていればシャンゼリゼでも勝てたか知れない。皆が団結出来ていれば、傷つく人はもっと
少なかったのかも知れない。自分がそう、彼女達を導いてやるべきだったのだ。今まで戦う事なんて知ら
なかった子達が、命懸けの戦闘を行って、どうして急に人を信頼して背中を預けることが出来るだろう。
それに気付いてやるべきだったのだ。君たちは人の命が懸かかっているのにどうして団結すらできないん
だと、少しでも思う前に。軍人である、彼女達を戦わせる、自分が。
 グリシーヌが大神を振り仰いだ。
「なに、貴公の気にする所ではない。
 よくあることだ。」
 珍しい、呆れたような窘めるような、そういう穏やかな笑い方だった。
「それに私も、カンカンのリズムが合っていないところがあると言ってやったしな。
 ああ見えてロベリアも、結構不器用なんだ。」
 目を細めて、彼女はあどけなく笑みを咲かせていた。
 大神は思わず押し黙っていた。天蓋に降る雨の音すら少し遠い。グリシーヌは寄りかかるのをやめ、大
神に向き直った。
「聞きたかったのはそれだけか?
 昼、私に何か話しかけたろう。」
 青い双眸が大神を見据えた。
 大神はただ、冷えた掌に、薄ら汗が滲むのを感じた。雨で冷えた手を握り込むと、拳の先から一粒の水
滴が落ちた。
「怪我、もう大丈夫かい。」
 雨が降っている。
 曖昧な声など掻き消してしまう強い雨が降っている。
 グリシーヌはふっと目を伏せると、右手を頬に沿わせ、こめかみに掛かる髪の毛を掻き上げた。細い髪
が白い指先に絡む。晒された側頭部には一筋、金髪を引き裂いてうっすらとした傷が走っていた。もう瘡
蓋も無く、やわらかい皮膚が張っている傷痕。
「エリカが治してくれたものだ、大丈夫に決まっておろう。
 じきに、痕も消える。」
 手を髪から放すと、金色の光が流れた。傷は隠れて、もう大神には解らない。まだその傷を負わせた戦
闘から一週間も経っていない。あの時。ポーンの胴体から噴出した百度を超える高温高圧の蒸気が光学カ
メラを覆い、大神機は外部情報を得る最大の手段を失っていた。それでも、大神は強く踏み込んだのだ。
レーダー上で四歩の間合いにいる敵蒸気獣へ、機体を加速させ腕を振り抜き、強い力を刀身に迸らせた、
あの瞬間。
 共有回線内をグリシーヌの絶叫が引き裂いた。
 大神は唇を引き結んだ。足元には自分が作った水たまりが出来ていて、煉瓦の間に染み込んで行く。
「すまない、グリシーヌ。」
 冷たい風が吹いて、雨音を揺らした。濡れたシャツから冷気が体に染みる。
 肉薄したポーンを倒し、モニタを回復させるのに掛かった有限時間は永遠の粘度をしていた。コンソー
ルを叩き大神が見たのは、光学カメラ駆動部の間隙に槍を突き立てられたコバルトブルーの機体だった。
駆け寄るエリカが聖なる光を放ち、外部から無理ありこじ開けた光武内部は、
「あれは私の判断が甘かったのだ、隊長のせいではない。
 自分の機体状態も周囲の状況も、もっと把握しているべきだった。」
 グリシーヌが軽く首を振った。大神はそれに否定を重ねる。
「君をあの時、援護する者がいなかったのは俺のせいだ。
 君を孤立させるべきではなかったのに。」
 足元の水たまりが煉瓦の継ぎ目を浸食し、ゆっくりと薄く広がって行く。グリシーヌの小さな溜め息が
聞こえた。
「そんなことを毎回隊員に謝るようでどうするんだ、隊長。」
 部隊は幸運で勝利を得るものではない、幸運で命を守るものではない。勝つべくして勝ち、負ける時は
被害を最小限に留めて退くべきだ。頭を逸らし躱せたのは、ただの幸運以外の何物でもない。あと1セン
チメートルずれていたならば、怪我は皮膚を削るだけでは済まなかったろう。もう少しで、彼女は死んだ
かも知れなかったのだ、自分が到らないばかりに。
 グリシーヌが首筋に腕を回した。
「そうだな。
 他の者でなくて、よかった。
 エリカやコクリコが苦しむのは見たくない。」
 空の灯は落ちた。
「そうだろう。」
 大神は風下に立った。前髪が吹き上げられ、飛沫が散る。雨は少し細くなったが、風は変わらず額を撫
でた。そんなことない、そう言えば良かったのに結局、舌が貼り付いていて言えなかった。言うのも、お
かしい気がした。自分のせいなのに。いや、自分のせいだからこそ、言えなかった。
「煙草、吸ってもいいかい?」
 問うと、グリシーヌは短く了承した。大神はベストの内ポケットから、日本から持ってきた煙草の箱を
取り出した。半ば潰れた箱から最後の一本を取り出し銜えると、安いマッチ箱を同じ場所に探る。商店で
新しい煙草一箱と一緒に買ったマッチの先は白かった。
「煙草、吸っていたのか。」
 風に吹き消されないよう、手で覆いながらマッチを擦る。
「時々、ね。だからもう、随分古いんだ。」
 マッチの緋色の火で先を炙ると、煙草が朱の光を灯した。肺に流れ込む煙は湿気っているというよりむ
しろ、黴びた味がした。灰皿代わりの錆びた金属の缶の蓋をこじ開けると、燃え滓を中に落とす。蓋を閉
めると、缶内の濁った空気が鼻を擦った。
 煙草の煙が鼻から抜けて行く。煙草を吸い始めた理由は大したものでは無かったと思う。だが、こんな
にも吸う数が減った理由は忘れてしまった。肺に煙を入れる度、苦さが舌に広がる。
 身勝手な罪悪感だ。自分が戦わせておいて、引け目を感じるなど。理屈を捏ねながらも、自分は犠牲を
容認している。こんな引け目はただ、自分を慰める為の偽りでしかない。真実、傷つけたくないと思うな
らば、最初から戦いになど引き込むべきではなかったのだ。この事実を認め、出来もしない一人で戦う夢
を見るのではなく、都市を守る為に誇りを持って皆で戦い勝利する事を、単純に喜ぶべきだ。
 深緑の幌の端から滴り落ちる水は滝のごとく地面を穿っている。雲の濃淡も今は黒一色に塗り潰されて
判断が付かない。
「雨、やまないな。」
 目の前の道は水浸しで、アパルトマンから漏れて来る光や街灯の明かりが波紋を作っている。大神は吐
き出した息の分、煙草の煙を吸い込んだ。
「隊長。」
 はっきりとした声音が、大神の耳朶を打った。大きな煙を吐き出して大神は彼女を振り返る。グリシー
ヌが大神を正眼していた。
「撃たない銃は、持たない方がいい。」
 長い髪が一筋、左頬に掛かっていた。大神は煙草を挟む指に力が籠ったことに気付いた。服が濡れてい
るせいで、ホルスターの影が浮いている。
「日本ではどうかわからないが、フランスには様々な国から人が来る。
 それに、欧州大戦からまだ十年も経っていない。
 敏感な者は多い。」
 グリシーヌは大神の両眼を見つめたまま言葉を続ける。いつもと同じ食い入るような視線が意識を掴む
気がした。
「銃を持っていれば、望まぬ諍いに巻き込まれる事もあろう。
 例え弾倉が空でも、他の者にはわからない。」
 大神は口の中だけで、あぁ、と頷いた。気が強いけれど、本当に心根は優しい子なんだと思った。躊躇
いながらも、こうやって心配してくれる。
「貴公がそう撃たれるとも思わないが。霊力もあるのだし。」
 窺うようグリシーヌが大神の顔を見上げた。大神はたぶん、恐い顔はしていなかったと、思う。彼女は
僅かに顔を背けると、誤摩化すように微かな笑い声を立てた。腰の辺りで握られた指先と語尾が揺れる。
「それにしても、ロベリアは随分うろたえておったぞ。
 隊長が怒るとは思わなかったのだろうな。」
 ただ、頭を殴られた気がした。
 口が動く。
「グリシーヌの言う通りだ。
 ロベリアにも見抜かれているくらいだ、持っていない方がいいな。」
 目を細めて笑って、大神は灰になった煙草の先を指で弾いて落とす。灰色の粉は一瞬、傍の電灯に照ら
されて白く光ったけれど、水溜まりに落ちて濁った。煙草を吸うと、黴臭さと苦みが舌に広がった。吐き
出すとき、鼻から雨に包まれた夜の透き通る匂いが体に入り込む。この煙草は終わりだ。指を焼きそうな
程に短くなった煙草を、大神はポケットから出した錆び付いた缶の内側に押し付けた。火が消える手応え
だけが指先から伝わる。
「ありがとう。」
 言うべきだろうか、と小さな声が頭の中に響いていた。
 このままでは、きっと彼女達は戦い難いだろう。誰かを撃つか撃たれたかした銃を、いつまでも空にし
たまま持っている男を、何も聞かせないまま信頼しろと言えるだろうか。本当に、隊員の事を思うのであ
れば、言ってしまえる筈だ。
 それか本当に正義であるならば、この空の拳銃を捨てられる筈だ。正義であれば、何も悔いる事も恥じ
る事もない。彼女は軍人だ。自分も軍人だ。あのまま自らの手で仲間を傷つけることを彼女は欲しなかっ
たからこそ、撃てと言った。そして、自らの手で彼女が仲間を傷つけないために撃った。この何処に、人
の道に外れた事があろうか。自分が彼女の立場なら、自分も撃って欲しかった筈だ。俺は正義だった。
 だから何度同じ場面を繰り返しても、彼女を撃つ。またこの拳銃に、弾を込めても良い。このリボルバ
ーを開け、真鍮色した鉛玉を詰めれば良い。
 いずれにせよ、この銃を弾倉を空にしたまま持つベきではない。空の銃は何も守らない。
 あやめさんのように、強くあるべきだ。
 彼女が自ら弾丸を受けたように。
 あの時、拳銃で正確に急所を射抜くには遠い距離で、光武から身を乗り出していて足場は不安定だった。
本当に、自分が撃った銃弾は彼女に狙い違わずあたったのだろうか。だが、彼女には霊力があった。もし
かしたら、彼女は。
 大神は耳の裏を伝う水滴を親指で拭った。
「貴公は、やわらかい壁だ。」
 空き缶の蓋が閉まる。黴臭い煙の残り香が、口許から離れて行った。大神はグリシーヌを振り返った。
目元をやわらかに解いて、青い瞳が大神を映していた。
「私たちを包んでくれるようで、やんわりと押し返す。」
 雨音の中、グリシーヌの密やかな声が小さな幌の下に流れた。
 強い風が吹いて、雨粒が強く天蓋に叩き付けた。
「俺は別に、そんなつもりは。
 君を、君たちを傷つけたなら謝る。ただ俺は」
「何か言えと言っているのではない。」
 グリシーヌの語気は強かった。声を荒げてしまったことに自分でも驚いたのか、グリシーヌはばつが悪
そうに口を一度引き結ぶと、手摺を掴んだ。吹き込んで来る雨粒が、その左手の甲を濡らす。大きな雨粒
がいくつも白い手で弾けた。
「黙っていて良い。
 人に言っても、仕方のないこともあろう。
 無理して話されたって、私も困る。」
 雨音が沈黙を埋めた。
 風が通りに吹き込んで唸り、千切れた木の葉が過って行く。細くなった雨はそれでも、風に巻き込まれ
て渦を作り出す。電灯に掛かる雨が光の形を空中に描いていた。
「なぁ、隊長。」
 グリシーヌが口を開く。彼女は路面を見下ろして、横顔は髪に隠れていた。白い鼻先と唇が、薄青い夜
の化粧をされている。
「私は、悲しい事は二つあると思う。
 一つは人を失う事だ。」
 遠い沈黙を、その言葉に感じた。
「二つめは、目の前に居る人に想いが伝わらない事だ。
 そして、目の前に居るのに、必要でなくなってしまう。」
 細い指を伝って、雨粒が彼女の薬指から雫を落とした。手摺を握る左手を、間断なく雨が叩いている。
「辛い事は、人に頼っても良い。
 貴公にとって、私達は頼りのないものかも知れないが。」
 大神は口を噤んだ。胸の中奥深くに染みだした言葉が肺を叩く事はなかった。形の無いまま底に沈んで、
息を止めている。
「隊長。悲しめるのも強さだと、私は思う。」
 グリシーヌはそう言って、大神を見上げた。風が吹いて、雨が波打つ音が聞こえた。真昼の海のような
目が吸い込むように見つめている。
 ここは暖かいね。
 大神は何度も胸の縁で思って、でも唇を硬く引き結んだまま、微笑みも作ってやれなかった。口許を綻
ばせると、細めた目蓋に縁取られ、景色が滲んだ。
「俺は、何も。」
 瞬きを二度する間、グリシーヌは大神から視線を逸らさなかった。
「そうか。」
 そうして彼女は、薄くわらった。