街灯が放つ光の中を、雨粒が駆けて行った。
「何もないなら、良い。」
 電気の作り出した黄ばんだ光から零れた水滴は、通りに張った真っ黒い水面に吸い込まれていく。波紋
が細い光の粒を乱反射させ、彼女の横顔を残滓がうっすらと縁取る。雨が、透きとおる青い目に映ってい
た。
 海鵜の目だ。
 江田島の岩礁に群れていた黒い鳥達の一羽。
 陽光の満ちる穏やかな瀬戸内の海を見つめていた、深い青色の目。細波を立てる風の模様を描き、瞳の
奥に水面の輝きを映していた、あの海鵜の眼差し。
 大神は右手でズボンを握り締めた。
 その表情は、なんだ。

 瀑布が叩き付けている。水の塊は路面を激しく打ち据え白く砕け散る。頭上の幌は突き破れんばかりに
けたたましく身悶えし、通り中の窓硝子が激しく鳴り震えていた。手摺で弾けた水滴は背中から体を射抜
く。銃声が街から二人を抉っていく。
 言うべきだったのだ。
 結論は脳を貫き網膜を裏から照らし、感覚の中だけで目を眩ませた。黙っていていい、鼓膜を打ち鳴ら
した言葉はもう雨に撃ち落とされた。
 大神はグリシーヌの側頭部に視線を寄せた。艶のある豊かな金髪が流れ、肩に落ちている。風に煽られ
るその髪を手で押さえ、グリシーヌは金の睫が揃う目蓋を閉じ瞬きをした。夜陰をけぶらせる雨をその耳
は聞いている。その耳の僅か上には、肌を引き攣らせる傷がある。
「隊長、そんな顔をするな。」
 言わなければならない。
 グリシーヌが淡い色をした唇を綻ばせ、言葉を紡いだ。
 横殴りの雨が辛うじて乾いたままであった煉瓦敷の玄関口に吹き付け、耳元で切れる風が唸る。冷たい
空気は大神の喉から鼻へと突き抜けた。
「俺は君たちに、言わなければならないことがあるんだ。」
 人を撃ったことを。その人に固執するあまりに、隊員達が命を捨てて戦うのを止められなかったことを。
隊長として言わなければならない。
 後ろから差す門灯の明かりが震えている。水面に流れ出す影が動き、グリシーヌが大神を振り返った。
頬になびいた髪を耳に掛け、彼女は眩しそうに笑った。
「本当に、言わなくて良いんだ。
 大切なことなのだろう。」
 あどけない少女の笑顔だった。
 眦を緩め、頬を解いて、やわらかく唇を綻ばせる。昼日中のテアトル広場で、駆け出しの画家が広げた
キャンパスの前に座って、花の一輪でも耳に掛けて見せたならば、きっと誰もが恋するであろう笑顔だっ
た。
「心から話せる者に話せば良い。
 貴公が最も安まるようにすれば、それで私は構わない。」
 穿つような雨の降る夜でなければ。
 手摺に載せたグリシーヌの左手を雨が撃つ。透明な雫は白い手の甲で壊れ、水飛沫を暗闇に弾いた。水
の破片は腕の腹を伝い、七分丈の青い上着が濡れる。彼女は指先から黒く塗り潰されていく。
「皆も、言葉などなくとも受け入れてくれよう。
 ただ貴公を案じているだけなのだ。」
 グリシーヌが右腕を広げた。掌を上向け、招くように体を開く。劇場で人を迎える時のような恭しさで。

「やめてくれないか。」
 一面、夜の海だ。
 雨音が潮騒に変わる。四方から吹き荒れる風に引き摺られ、雨は寄せては返す波へ。削られた街の輪郭
は夜に溶け、路面に映る街並は湾口の輝きへと壊変する。
「言わなくていいわけ、ないだろう。」
 歯を噛み締める鈍い音が頭の奥に響いた。大神は二つの腕でグリシーヌの肩を掴んだ。戦斧を振るう印
象とは異なる細く華奢な肩は掌に納まってしまう。顔を覗き込めば、見開かれたグリシーヌの目と視線が
合った。快晴の空を映した海のような明るい眼が、驚愕を滲ませて大神の目を見つめている。行き場を失
った右手が夜を彷徨う。
「俺はあの時、君が死んだと思った。」
 単純な三文字だった。絶叫を聞いた瞬間、光武の操縦席を槍が貫いているのを見た瞬間、駆け抜けたの
は単純な、死んだ、という三文字だった。
 大神の額を水滴が一つ下っていった。
「命を懸けて戦っているんだと、死ぬかも知れないのだと、
 シャンゼリゼの時よりはっきりとわかったろう。」
 青い上着に深い皺を刻む腕が震える。大神は、硬い息を呑み込んだ。グリシーヌは唇を引き結び、大神
の両眼を見続けている。
 ほんの僅か、運が良かっただけだ。操縦席から引きずり出されたグリシーヌの顔面が血液で赤く塗り潰
されているのを目の当たりにした時、その事実が突き立った。顔の右半分を覆う手、その指の間から溢れ
た血が筋となって幾本も腕を伝っていた。髪も肩も腕も血液で重たく濡れ、操縦席は血塗れだった。計器
の円形硝子も温い赤に染まり、迸った血液は隙間にまで入り込んで床へと雫を落とした。穴の穿たれた座
面には、抜けた金髪が絡み付いた。その中で、彼女の唇だけが青かった。
 掌の中で、グリシーヌの肩が微かに動いた。
「俺は君たちに言わなければならないんだ。」
 俺はこの拳銃で、上官を射殺した。
 彼女の肉体に植え付けられた降魔の種が目覚めるのを止める為だった。当時、降魔の種は明らかでなか
ったが、彼女は自分の肉体の異変に気付き、何かあれば俺に自分を撃つよう言い含めて、俺にこの拳銃を
渡した。
 やむを得なかった。彼女は敵の元へ、己の意志とは反して帝都防衛の要となる神器を持って行こうとし
た。撃ちなさい、彼女の最後の叫びに応え、俺は彼女をこの拳銃で撃った。引き金を絞ると鋭い衝撃と爆
音が俺の体を襲い、一粒の鉛玉が彼女の命を絶った。何か飛沫が彼女から散り、彼女はその場に重たい泥
のように崩れ落ちた。
 彼女が悪とならない為だった。彼女が仲間を自らの手で傷つけないようにする為だった。彼女の軍人と
しての誇りの為だった。
 しかし死んだ彼女の肉体は降魔となり果て、街を脅かした。俺たちは黒幕を倒し事件を納めれば彼女を
取り戻せると信じ、戦いを挑んだ。結果俺は、帝都花組のみんなが命を捨てて戦うのを止められもせず、
最後の一人になるまでかつて彼女であった降魔に刃も突き立てられず、立ち竦んでいただけだった。
 この拳銃は彼女を撃ったものだ。
 俺が正義の為に奪った命があることを忘れない為に、俺がかつて仲間の命をこの手から落としたのを忘
れない為に、この拳銃を今も持っているんだ。
 大神の背中を冷たい風が打った。渦巻く波音は耳を聾し、水面に溶けた二人の影が崩れる。
「隊長、本当に良いのだ。」
 グリシーヌの右手が、大神の腕を掴んだ。そうして、唇を噛み締め震える大神へ、頬を和らげる。
 大神の言葉は、一つも音になってはいなかった。
 何の音も出て行かない。顔面を潰して、唇を戦慄かせて、肩を握り締めても、その喉は乾いている。擦
れた音の一つすら、震える唇の間からは零れない。
「もし、貴公がそれを抱えているのが辛くて話したいのなら、いくらでも聞こう。
 だがそうではないのだろう?」
 グリシーヌの手指から伝わる熱が、濡れたシャツを通して広がっていく。彼女の五本の指が確かに大神
の腕を掴んでいる。
「そんなさみしい言葉はいらない。」
 大神は右手で拳銃を握り締めた。厚手の布地に深い皺が刻まれ、隠された硬い金属の形が浮き上がる。
 手が痛む。
 握り締めた胸が痛む。
 噛み締めている奥歯が痛む。
 乾いた目が、痛む。
「違う、俺は・・・、」
 口内に貼り付いた舌を引き剥がすと、喉が痺れた。
「俺は、隊長なんだ。
 君たち隊員に言うべきなんだ。」
 開いた口に、冷たい空気が流れ込む。顎は震えるように上下して、ただその夜気を噛み続ける。音は無
い、声も無い。奥歯が当たる、微かな感触だけが頭の中に響く。雨音が肌を煽る。
「俺は正義だ、だから、」

 かちん

「悲しむことなんて、」

    、という空虚な音が胸の奥で木霊した。

 軽い音だった。
 空の弾倉を叩く、軽い音だった。
 空気が胸の中心を抜けていく。
「俺は、」
 目を硬く瞑り奥歯を強く噛み締めると息が詰まった。
 言葉が窒息死していく。
「俺は」


 額に女性の指先が触れた。

 目を見開いた。雨の吹き付ける夜に、女性が立っている。胸を握り締めていた右手が解け、顔がふっと
前を向いた。白い指先は、大神の額を拭い横に動く。
「水が垂れていたから。」
 グリシーヌが戸惑った顔をして、大神にそう答えた。
 桜が舞った。
 満開の桜に包まれて彼女と共に過ごした時を、彼女と青々と茂る硬い楕円の葉を撫でた時の橘の香りを、
彼女と共に見つめた路傍に群れ咲くすみれの可憐な姿を、丹念に育てた胡蝶蘭が花開くのを共に見つめた
喜びを、夏の日差しを全身に浴びながら見つめた花カンナの色を、アイリスと並んで咲いた菖蒲の色を、
 俺は知らない。
 あやめさんの築いて来た幸福がどれほどのものであったのか、彼女達が手にしていた時間がどれほど愛
しいものであったのか、俺は本当には知らない。
 彼女達が命を投げ出す程に大切なものであったのに。
 俺は知らないまま、黒い穴を開けてしまった。
 広げた掌に青い夜が載っている。冷たい風と雨粒の破片だけが掌に触れる。
「俺は、どうしようもないんだ。」
 左手を中途半端に開いたまま、大神は黒い目を見開いてグリシーヌを向く。風が通りの雨を押し流して、
二人の体を強く煽った。大神の背を散弾で穿ち、グリシーヌの体を袈裟懸けに雨が斬りつける。
「俺は、俺の正義の為に、人を傷つけるんだ。」
 剣を握り肉刺を潰して出来た皮の塊の上で、僅かな雨粒が震えている。
 この掌にはなにもない。
「みんなを戦わせて、
 みんなの大切な人を奪って、
 それでも俺は誰も守りきれない。」
 雨に掻き消されながら叫びが喉を走り出る。何を叫んでいるんだ隊員に向かって、そんな空しい虚構の
言葉は雨に倒れる。
「この街の人のことも!
 目の前に居る君のことも!」
 ただ己の無力だけが真実だ。
「俺は誰も守れないんだ!」
 グリシーヌが生乾きの傷口を晒して、大丈夫だと皆に笑ってみせたように、顔から剥がした右手と傷口
が血で固まった髪で繋がったのを見ない振りをしたように、俺は息をするように君たちを削って勝手にそ
の笑顔に赦されている。隊員達に命を捨てさせた時となんら変わってはいない。俺も、華撃団も。
「どうして俺一人で戦えないんだ!
 俺一人で軍人として戦えれば、こんなことなかったのに!」
 世界を捨ててでもあなたを救いたい。
 本当は何回やってもそんな道は選べない。
 例えもし、同じことがあったとして、同じように俺は撃つ。世界を捨てて、ただ一人を救うことなど出
来ない。それが例え、
「君たちに霊力さえなければ・・・っ。」
 君たちの誰であっても。
 俺は、俺の正義の為に、人を殺すんだ。
「君たちは、シャノワールを華撃団を、大切にしようとしてくれている。
 だが、ここじゃなくたって良いじゃないか。
 戦わなくたって迎えてくれる場所があるだろう!
 心も体も満ちる場所は、絶対にある!」
 アパルトマンの明かりが一つ消えた。通りはそれだけでまた一つ色を失い、雨はますます夜と同化して
いく。汚れた革靴が踏みつけにした影が宵闇に滲む。
「そうだな。」
 グリシーヌが小さく頷いた。
「戦いなどなくとも、繋がれる場所であれば良かったのだろうな。」
 強い風が吹き付けて、雨粒が壁に数多の痕を残した。グリシーヌの頬が濡れている。
「だが、人に代わりなどいない。
 この場所の代わりは、他に無いんだ。
 もし代わりが在ったなら、千年もの孤独を背負うものはいない。」
 濡れたグリシーヌの左手から、水滴が煉瓦の上に落ちる。一つ一つ形の分る水滴は、足元に小さな円を
いくつも作った。
「確かに、恐ろしくもあるが。」
 彼女の指が、こめかみから走る傷痕をなぞる。腕の陰が横顔に流れ込んだ。裾が翻り、髪が一束暗闇に
絡む。雨の放つ銃声が止まない。大神は掌で顔を覆った。
「俺は、正義なんかじゃないよ。
 君たちを傷つけて戦う俺は・・・っ。」
 何を言うんだ俺は。どうして俺は会って間もない子にこんなことを言っているんだ。俺は、おれはどう
して
「戦う事を決めたのは、私達自身だ。
 貴公が気に病むことは何もない。」
 グリシーヌの耳元で切れた風が、金髪の数本を風になびかせた。
「怪我も、仕方の無いことだ。」
 大神を見据える彼女の微笑みが、わずかな幻想を打ち砕く。唯一つの絶対な正義の夢を。
「だから貴公は少ししっかりすれば、それだけでよい。」
 その立ち向かう強さで。
「今は、その人のことを悲しみ悩めばいい。
 そうして立ち上がれば強くなれると示したのは、貴公であろう。」
 大神は歯を食いしばり、顔を俯け目を硬く閉じた。グリシーヌの手が、ただ包むように添えられる。冷
えた体を温めるささやかな温かさが、触れる。柔和に微笑んで。
「貴公なら、そうなれる。」

 やわらかい壁は、君の方じゃないか。