温度のない自分の息を置き去りにするよう、雨の中を走った。
 大きな息は頭の中に充満し、割れた唇から埃臭い雨粒がなだれ込む。吹き飛ぶ泥水が脹脛にまで跳んで、
重たく足に絡み付いた。靴なんてもう意味が無い程に濡れている。足の指が泥を掴んだ。だけど止まれな
かった。腕を振って降りしきる雨の中を、暗闇しか目に映らない雨音の中を雨粒の中を、髪を振り乱して
走る。丘へ、あの空に沈むモンマルトルの丘へ続く階段へと、グリシーヌは転がりこんだ。
 足が段差に引っかかった。走りが止まる。リズムばかり乱れた息を奥歯を噛み締めて抑えようと、肩で
大きく息を吐く。手摺を掴んだ手の甲で、大きな雨粒が痛いくらいに激しく弾けた。俯いた背を、雨粒が
叩く。
「本当に・・・そう出来るなら、誰も、」
 頬を後頭部から垂れてきた雨が伝った。
 指先がしびれている。背を打ち続ける雨が、体温を河へと流してしまう。息は荒いだけで熱は生まれず、
ただ喉を削って痛めるだけだった。
 言葉など捨ててしまえばいい。
 階段脇に立つ街灯が揺らす光が、石段の上に落ちる波紋を照らした。黒い水面は絶え間なく震えていて、
覗き込む自分の顔は見えない。
 いつもむなしい言葉しか持っていない。
 石段の先を仰ぐ。聳え立つ高台の建物の隙間から、街の明かりに薄ぼんやりと照らされて汚れた雨雲が
覗いている。雨は空を向く顔にも降りかかり、目は瞬きを繰り返す。雨に視界は幾度も塗り潰され、瞬き
する度に何度も晴れた。
 自分はきっと冷たい顔をしていたのだと、思う。彼があんなにも声を振り絞る間、言葉を震わせる間、
崩れた微笑を浮かべてみせる間、ただやさしいフリをした言葉を放った自分はきっと冷たい顔をしていた。
彼は、本当は、言いたかったのかも知れない。言ってしまいたかったのかも知れない。言ってしまった方
が良かったのかも知れない。それを制したのはただ、信頼ではなく義務によってしか話を聞かされない空
しさを、自分が厭うたに過ぎない。
 それをさもやさしさのように嘯いて。
「誰も、雨に打たれたりしない。」
 優しい人の形は縁取りだけで、中には何も入っていない。空気を吐き出しただけの喉だけが、まともな
音も出せないくせに痛んでいる。皆なら、なんと言葉を掛けただろうか。エリカなら赦しをくれただろう。
コクリコなら慰めをくれた筈だ。花火でも、例えロベリアでも自分より温かかっただろうと、思う。ただ、
自分ばかり空っぽだ、いつも。
 空に向けた掌に、水滴が幾つも落ちた。
 あの、無数の声に返す言葉の一つも持たないで。
 口に過った笑みを、雨が掠めて喉元へと垂れた。うなる風に足元を掬われないよう、手摺を握り締めて
階段を上がって行く。暴風は雨を下から上へと降らせ、通りの看板は今にも吹き飛びそうにけたたましく
跳ね上がる。電気を点す街灯すら、今にも消し飛びそうに光を明滅させていた。
  の底みたいだ。
 グリシーヌは唇を噛み締めた。丘の上へ、水面の方へゆっくり上がって行く。影も足も暗闇に同化して、
目を閉じているのと変わらない。足の無い人間が穴の中を歩いている。
 辻の先、鉄柵の奥に、雨に霞んだ屋敷が見えた。

「お嬢様!
 こんなにお濡れになって!」
 タレブーは言うなりメイド達にタオルを持って来るよう手で指示をした。仁王立ちの彼女の影が、グリ
シーヌの頭上に落ちる。グリシーヌは服の裾から水が滴り落ちて玄関を濡らすのを見るともなく眺めなが
ら、曖昧な返事をした。
「いや、ああ・・・仕方あるまい、雨が降って来たのだから。」
 街を揺さぶる強い風雨も、厚い扉のうちに入ってしまえば少し遠い。ただ濡れて体に貼り付く服がひた
すら不快だった。髪は首に絡み付き、汗と雨粒が混じった液体が顔面を垂れていく。
「電話してくだされば、屋敷の者を迎えに行かせたザマス!
 それをこんな雨の中、傘もささずにお戻りになるなんて、何かあったらどうするザマス。」
 叱責に顔を顰めつつ、グリシーヌはメイドの一人からフェイスタオルを受け取った。
「この時間だぞ、電話交換所がやっているかわからんだろう。
 第一、そうそう電話を持っている家など見つかるわけなかろう。」
 白いタオル地に、グリシーヌは顔を埋めた。どことなく雨の匂いが立ち上る。
「電話交換所はお嬢様が小さい頃から自動式ザマス。」
 タレブーが憮然として口を開いた。まとめあげた銀髪が一本、耳の脇から垂れては、シャンデリアの落
とす光を吸い込んでいる。
「そろそろ夜に何処に行かれているのか、教えて欲しいザマス。
 その方がお嬢様を送迎できてよろしいザマス!」
 重たい後ろ髪を持ち上げてタオルで首筋を拭うと、グリシーヌは自分の隣に控えたメイドの一人を一瞥
した。軽くため息をつき、上着のボタンに指をかける。だが、指先が思いの外冷えていて、小さなボタン
を上手く外すことが出来なかった。爪がボタンを引っ掻いてぱちりと音を立てる。
「今日はそれとは別だ、ただ街を歩いている間に降られたに過ぎない。」
 ボタンを諦めて、メイドの一人からフェイスタオルと引き換えに、大判のタオルを受け取った。
「雨だけが問題ではないザマス!
 そもそも、ブルーメール家の次期当主ともあろう方が、
 夜中に一人で歩き回ることを言っているザマス!」
 タレブーに見えないように眉を顰めて、グリシーヌは頭からタオルを被った。一人ではなかろう、花火
が一緒だ、と言い訳が口の中で反響したが、閉じた唇が外には漏らさなかった。床に泥の跡を引き摺りな
がら、自室へと足を向ける。
 夜を透かして黒い窓硝子を、雨の散弾が叩いた。
「もう花火は戻って来ておろうな?」
 グリシーヌは玄関ホールを振り返った。
 潮騒のように、夜が騒いでいる。
 一瞬の沈黙をその波音で描き出して。
「花火はまだ戻って来ていないのか?」
 先程、グリシーヌにタオルを差し出したメイドの腕には、更にもう一組のタオルが抱かれている。顔の
高さに右手を掲げるのは、タレブーがメイド達に指示を出す時の仕草だ。彼女は手を下ろすと、皺の刻ま
れた首を回し、ゆっくりとグリシーヌに顔を向ける。その横顔が強ばったものから、音も無くやわらかな
笑みに変化するのを、グリシーヌは見ていた。
「もうすぐお戻りになるザマス。」
 雨音が屋敷の大きさを鼓膜のうちに縁取り、その空間をタレブーの声がひっそりとこだました。窓が大
風に鳴る。白く弾ける雨粒が扉を向こう側から叩いた。
「車の用意はもう出来ているザマス。
 メイドを一人伴って迎えにあがらせるザマス。
 そうザマスから、お屋形さまはお部屋でお待ち下さいザマス。」
 鈍い雷鳴が地面を揺さぶった。外が一瞬、微かに白む。ホールを照らす電灯が、不安げにかちかちを明
滅を繰り返した。ボイラーから送られて来る電流が乱れるのだろう。
「私が探しに行く。」
 妙に硬い音声が口から零れた。視界が切れた。身を翻し扉に向かう。背筋が粟立つような、肌が焦げる
ような嫌な気持ちが体の奥から湧き起こり気持ちが悪かった。グリシーヌの手から、タオルが床に落ちた。
 その手を、硬く骨張った手が掴んだ。
「お待ち下さいザマス。」
 タレブーがグリシーヌの手首を掴んだ。その指先は腕輪に掛かり、手首を放すまいと確と力を込められ
る。
「お屋形さまが行かれることはないザマス。
 当今、ご一緒に出かけられている所でないなら、花火さまがいらっしゃるのはいつも」
「どこだと言うんだ。」
 静まりきらないまま震えている鼓動が、胸の縁を裏側から叩いた。嗚咽を催す時のような強い衝撃に、
息が刹那の間途切れる。
 雨の渦巻く轟音がホールに響く。
 タレブーが何か堪えるように唇を引き絞り、グリシーヌを見つめていた。
「心配はなさっても、怖れることはないザマス。」
 左腕を力強く振り抜く。互いの腕と指に不愉快な音を響かせて、濡れたグリシーヌの手はタレブーの指
を擦り抜けた。扉を押し開くと、隙間から風と共に雨と千切れた葉っぱが舞い込んだ。外は黒い夜だ。
「お嬢様!」
 稲妻が一瞬、屋敷もタレブーの顔も照らした。
 嵐だ。
「一時間したら戻る!」
 傘を、ローラの叫びを吹き付けた風が凪ぎ払った。爆発するような風が体を掴む。街明かりすら流れ出
す雨の中を、グリシーヌは走り出した。


 わかっている。

 踏みしだいた泥水が弾けた。髪は根元まで濡れ、頭にべったりと貼り付いて毛先から水滴を零す。
 これはただ強い雨で、木々を揺さぶる風が激しいだけのことを。この雷鳴がいずれ去る筈のものである
ことを。運転手はいささか風雨が強いからとて、車の操作を誤るような信頼の置けぬ腕ではないことを。

 わかっている。

 そう走る意味など、一人で雨の中を走る価値など何処にも本当はない。タレブーの言う通りなのだ本当
は。本当は、大丈夫だ。すぐに花火を連れて帰れる筈だ、誰であっても。何も困ることなどありはしない。
むしろ、車で迎えに行かせた方が良かったことを。
「わかっている。」
 真っ黒な夜が空から続き、通りに流れ込んでいる。迸った声は、嵐に叩き壊された。
 息も吐けない雨と風の中で、見えない目を見開こうと瞬きを繰り返し、ひたすらに丘を駆け下りていく。
 街はからだ。誰も居ない。その空白を埋めるように、道をブリキのバケツが転がっていき、風が耳を塞
ぐ。顔面を掌で拭うと、グリシーヌは再び地面を蹴った。顔に当たる雨が目を潰し、口にも水が流れ込む。
濡れそぼった服が体に絡み付いた。
「わかっているのだ。」
 昼過ぎ、最後に花火と別れた通りには誰も居ない。濡れた路面に、左右から街灯の明かりが帯を引いて
流れる。グリシーヌは強く息を吐くと踵を返した。
 なぜ、自分は一人で走り出してしまったのだろうか。
 悪い選択であったと、自分でもわかっている。タレブーを振り払って飛び出す道理などなかった。メイ
ド達の整えた手筈をふいにすることはなかった。
「私は馬鹿だ。」
 雷鳴が遠くから押し寄せている。