第一話 黒衣の女王






 彼女は指の甲を口元にあて、長いため息を吐いた。その微かな音と一つの仕草が、議場を沈黙で切り裂
いた。
「何か、ご意見が。女王陛下。」
 イザベラ・ライラック伯爵夫人が書簡から顔を上げた。同席していた他6名の大臣も彼女を振り返る。
宰相ツェペシュだけは相変わらず眉毛一つ動かさず、ただ視線だけをくれた。
 女王の緑色した目が臣下の顔を舐めた。アーモンド型の切れ長な目は何も語らず、艶やかな睫がその縁
を彩っている。夜を流し込んだような黒髪は肩口で切り揃えられ、その歳若い頬を撫でる。一点の曇りな
き黒衣のドレスを身に纏い、女王は語らずそこに在った。
「カソリックは未だ国民の半分にも及んでおります。
 国の借金を思えば、先王の政策を引き継いでもよろしいのでは。」
 口を開いた大臣の顔を女王は一瞥すらしなかった。彼の言うこと、彼らが話しあうところは理解してい
る。先王は暴君であった、国の領地を切り売りしなければならないほどの借金を抱える程に。他国に比べ
海洋進出が遅れたことは借金の返済を難しくさせ、成果の乏しい戦争とそれによって得たネザーランドの
わずかばかりの領地を維持する軍事費は借金を膨らませるばかりであった。
 女王は息を吸い込んだ。居並ぶ臣下達はまだ17歳の彼女から見れば皆、親子以上に歳が離れている。
先王の時代から仕える彼らに気圧されまいと、テーブルの下、見えぬところで彼女は拳を握った。
「そこに義があるように、私には思えません。
 その差別はいずれ、かの地のように国を割る火種となるのではないでしょうか。」
 女王・花火は言い放ち、決然と一同を見渡した。穏やかな双眸に一抹の力が宿る。大臣達は誰も喝采す
るわけでもなく、しかし小馬鹿にするわけでもなく慇懃な態度を崩さず花火の発言を見据えた。
 フィリップ。
 胸の中で、花火は誰にも聞こえぬ声で呟く。淡い恋のまま海の泡と消えた人、本当ならば玉座を占める
のは彼であったはずだった。先王の嫡子、紛うこと無き第一王位継承権者にして、国民の信厚い人だった。
彼ならきっと、この国を正しく繁栄へと導いただろう。彼はやさしく、決意ある人だったのだ、それは恋
によりついた色でもなく、死により落ちた色ゆえにでもなく。
「いくら新大陸で略奪を働いた船だからと言っても、他国の海軍であることには変わりません。
 あの敬虔な神の息子とこれ以上対立を深めるのは・・・、むこうは無敵艦隊なのですから・・・。」
 ロランス・ロランが気難しげに眼鏡の柄を摘む。
「それで先王のようにカソリック修道院から財産を没収し、亡き彼を水に流して結婚を繰り返せと仰るの
ですか。
 もう、教皇から先王が破門を言い渡された時から対立は決定的となっていることは、
 あなた達の方がはっきりとわかっているのではないですか?」
 畳みかけた言葉に言い返す者はいない。花火とてわかっている、彼らの意見が割れていることも、諸手
を上げてほめられた施策でないことも充分理解している。しかし、物事は全てを理想の通りには出来ない
のだ。過去と多数の人が織り成す多くの事情が現実という形を作り、実現の形を規定するのだ。
 全てのものに優先順位がある。そして、女王・花火が最上位に掲げるものは常に揺るぎない。
「私の誇りとは、彼の愛した国と国民を守ることです。
 彼らが幸福に生きられる場所をこの地に築く、そのためにはなんでもしましょう。」
 花火は机に置いてあった一枚の書面を開いた。彼女の署名をも記されたそれは、私掠免許だ。
「それが例え、海賊を仲間にいれることでも!」
 私掠免許、それは他国の軍艦を襲撃し、財産を奪っても構わないとする海賊免許だった。


 七海を制すとさえ言われるその海賊を、知らぬ者はいない。


「女王陛下!!」
 謁見の間に甲高い悲鳴が響き渡った。玉座についた花火は彼の様子を見て息を呑んだ。抜き身の剣を鞘
にしまうことすら忘れて、彼は蒼白な顔面で跪く。
「陛下、申し訳ありません!
 海賊が、あの海賊が兵士などに従わないと、武装をしたままこちらへ!」

 この海で最も速く進む船を駆り、この世で最も海に愛される海賊。

 下段に控えたイザベラ・ライラック伯爵夫人が苛立たしげに腕を組んだ。その口からは檄が飛ぶ。
「それでなんだい、蹴散らされて来てこの場を逃げろとでも言うのかい!?
 たった一匹の海賊に何を手間取っているの!!」

 新大陸へと渡り、無敵艦隊をも蹴散らし、数多の金銀財宝をその手中に収める海賊団の首領。

 兵士が小さくなっていた体をさらに縮こまらせた。ツェペシュの危惧した通りになったと、花火は黙っ
たまま考えた。二、三年前突然海に現れて、瞬く間に軍隊が恐れるまでに上り詰めた大海賊。その荒くれ
者が素直に言うことを聞くかどうか、私掠免許を提案した当のツェペシュさえわからないと言っていたの
だ。だがもしその時には、
「予定通り縛り首にし、海賊の首をかの国に送り友好の証といたしましょう。
 我が国の海賊に、カソリック列強国みな手を焼いているようですから。」
 ツェペシュが微かに眉間に皺を寄せ、そう呟いた。彼の用意した伏兵十名が、広間左右の扉の影で黒い
刀身の剣を抜いた。
「そうですね。」
 花火は膝の上で組んだ左右の手を動かさずに頷いた。
 刹那、扉の向こうから絶叫が迸った。
「陛下、お逃げください!!」

 銃弾すら彼の者を恐れて頬を吹き過ぎ、
 振るう戦斧は背丈をも越え、一凪ぎで五人をも打ち破るという。
 彼を愛する海は大波でもってその仇敵たちを凪ぎ払う。

 花火は緑の目を見開いた。

 幻想か、分厚い扉をぶち破り、怒濤が石の間を吹き飛ばした。銃剣を構えた兵士達を押し流し、伏兵達
すら巻き込んで、轟音と共に、立つもの全てをなぎ倒す。波は花火の元まで迫り、砕けた瞬間頬に確かに
冷たい飛沫がかかった。肌を伝って唇に、塩辛い味が広がる。
 驚きに立ち上がる間もなく、波は倒れた兵士を残して跡形もなく引いていった。いずこともなく、水滴
の一粒すら残さずに。
 そして開かれた扉から、一つの人影が悠然と歩み入る。
「女王陛下!
 ご命令に従い、参上致しました。」

 金のたてがみ、銀の戦斧、青い目をした彼を人は

「あなた・・・が?」
 花火は自分の目がひたすら乾いていくのを感じた。
 逆光の中、謁見の間の中央に進み出て、倒れた兵士を足元に従え立つ、その姿は、
「私はグリシーヌ・ブルーメール!
 以降、お見知りおきを、陛下。」
 慇懃無礼に微笑むその姿は、まだ十五、六歳の少女だった。
 
 金のたてがみ、銀の戦斧、青い目をした彼を人は畏敬を込めてこう呼んだ。

「あなたが、海をいく獅子。」

 歳若い獅子は口の端を引き上げて、余裕たっぷりに微笑んだ。

 右肩から流した長い髪が、溶かした黄金のように燃えている。
「そのような二つ名を自分では名乗った試しはありませんが、よく言われるようですね。」
 恐らく2メートルはあるであろう長大な戦斧が、軽々と二度三度と細い手の中で回った。弾ける銀の光
が玉座を射抜いて花火の左目に突き刺さる。
「まあ噂だと、私は男になっているようですが。」
 可笑しそうに顔を伏せ、グリシーヌ・ブルーメールと名乗った海賊は自身の斧に寄りかかった。左肩か
ら斜めに掛けた外套の下、腰に巻いた濃青の帯には銃が刺し、ベルトにはだらしなく刀身の短い剣をぶら
下げて、塩を吸ってか白く濁ったブーツを履きこなす彼女は紛うこと無く海賊だった。
「屈強な三十代の男の人を想像していたわ。」
 ただそれらを身に纏う彼女自身は少女だった。なめらかな白い肌、整った鼻梁に薔薇色の唇、まだ歳の
頃は15、6歳だろう、頬の輪郭には幼さが残っている。花火に限らず、目の前で先程の実力を見せつけ
られない限り、誰も彼女をかの大海賊だなどとは信じられないだろう。花火はそっと黒いレースの手袋越
しに自分の頬に触れた。
「さっきの大波が・・・、あなたを大海賊にしたのね。
 本当に、あなたは海に愛されているよう。」
 あの海水の感触も塩辛さも全て夢であったかのように、そこには何も残ってはいない。不思議な力だっ
た。陸にいたなら彼女も魔女の一人となったのだろうか。だが大洋を渡る海賊ならば持ちうる力なのだろ
うか。グリシーヌは黙って、花火を見上げていた。その眼差しはまるで遠浅の海をそのまま流し込んだよ
うに透き通っている。
「何を仰っているかわかりませんが、噂は鵜呑みにされない方がよろしいかと。
 私が女王陛下の兵士達より強いことだけは、本当のことですが。」
 彼女は肩を竦めた。その一方で、周囲に倒れる十数の兵士達の中で一人、ツェペシュが身を起こした。
彼は落ちてしまった黒い外套を羽織り直し、花火とグリシーヌへと顔を向ける。花火は言葉を選んで、何
もグリシーヌへは掛けなかった。
 アーチの向こうから、数十の足音が反響して来る。金属がぶつかり合うけたたましさは増援の兵士だろ
う。グリシーヌが斧を握りしめ、ちらと花火を窺った。傷一つない頬には笑みが浮かんでいる。
「ツェペシュ、もう結構です。」
 もはやこの場に兵士は必要ない、花火は軽く手を振った。寡黙な宰相は薄く頷くと、近づき足音の方へ
と歩いていく。城内の兵力を集めれば、この海賊を生かして帰さないことは出来るだろうが、天上の喇叭
を待つ兵士の方が多くなるだろう。
「懸命なご判断です、さすが黒衣の女王。
 御身を守る方法は確と心得ていらっしゃるようだ。」
 もし、彼女にその気が在ったのなら、女王はすでにこの世から消えていた筈だ。グリシーヌは銃剣を持
った兵士達が外に数十と居並んでいるのを、振り返りもしなかった。
「今後から、所持品を取り上げる場所を城門まで下げることにします。」
 花火はそうとだけ淡々と言い放った。
 高い窓から、世界を切り裂いて光が城内に差し込んだ。風が雲を晴らす音も無く、ただグリシーヌが長
い髪を掻き上げるぱらぱらという手触りだけが二人の間に落ちた。太陽の中、彼女の唇からは白く微笑み
が零れる。
「そう、あなたに私という獅子を鎖につなぐことは出来ません。
 もちろん、首に縄を巻くなどということは、到底不可能なことです。」
 海水を幾度となく浴びたブーツで、彼女は倒れた兵士を跨いだ。彼女の影が歪な形となって、その上を
渡っていく。長い斧も、銃も、反り身の剣も帯びたままで。遥か柱廊の先で、ツェペシュと兵士達が銃剣
を握り締める。
 彼女の手が、光を弾いて翻った。
「私は誇り高き海賊だ。
 無限の海で生き海で死ぬ。
 この小さな土塊の上で窮地に立つあなたの国を、私が救って差し上げましょう。」
 気取って差し出した掌に、若い獅子の自信と実力が乗っている。彼女は解っているのだ、いや、少しで
も国政に関心のあるものなら解っていることだ。この国の財政は、海賊にでも支えられなければ成り立っ
ていかないものであることを。それゆえ、私掠免許を彼女に与えようというのだ。他国の軍艦を襲撃し、
その軍艦が持っている新大陸からのあらゆる積み荷を奪っても構わない不問とする、代わりに国庫にその
一部を納めることも義務づける一枚の紙。
「それが、あなたの誇りなのね。」
 花火はグリシーヌの双眸を見据えた。
「それでライオンさんは何をお望みなのでしょう。
 国庫に納める金額を減らして欲しいということかしら。」
 口元に手を当てて、花火はグリシーヌを見下ろした。まさかいくらも納めないようにしろと言い、この
免許状の交付を無駄にすることはないだろう。もし、現女王の花火を倒そうが彼女に玉座が回って来るこ
とはない。確かに国は弱体化しているが、諸候のうちには力をつけている者もいる、それこそ、正当な王
位は己にあると主張する者もいるのだ。であれば今回を逃せば、この海賊にし略免許など回って来ること
など二度と無い。
 ここからは、駆け引きの時間だ。花火はいっそう頬に余裕を漲らせ、唇に笑みを引いた。知略に長けた
ライラック夫人が未だ昏倒していることは惜しいが、負けることはできない。自分は彼の愛した国を守る、
唯一の王なのだから。
 海賊は高らかに笑った。
「はっ! 金など! わざわざお許しを得るまでもない、より多くの財を手に入れればよいだけのこと!
 私は先程申し上げた通り、この小島を救って差し上げたいのです。」
 斧を床につく、金属音が気高い室内に響き渡った。
「この国はあなたのために割れようとしている。」
 思わず、花火は己が口をつくんでしまったことを後悔した。
 息を呑んだその顔を、グリシーヌも、そしておそらく外のツェペシュや兵士の幾人かも見ただろう。
 誰のために、この国が安定しないか、割れようとしてるかなど、花火が一番解っている。当代国王フィ
リップと結婚をするも、式の最中に海難事故で彼とその父王を失った黒衣の女王。その容姿は黒髪に線の
細い顔は両親の血を色濃く宿した異邦人のものだ。目にだけ現れた緑色だけは、王家の血筋を引くもので
あると示している。そう先王と血筋の異なる花火が王位を占めればそれは、王朝の変革を意味する。
 そして、それをよく思わないものは少なくない。
「そう、それで?」
 先王には妾腹だが娘が一人いる。カソリック教徒の彼女を、カソリック列強国も国内の約半数にも昇ろ
うというカソリック教徒もみな支持している。そして彼らは花火をこう呼ぶのだ、黒衣の魔女と。その魔
術で、先王と王太子フィリップを海で殺し、自分のみ残ったのだと。
 青い双眸が花火を貫く。その体から、声が迸るのを花火は目を逸らすことも出来ずに見た。
「あなたが、旧教徒と新教徒の争いをいち早く納めるべきだ。
 何万も死ぬ虐殺が起こしてはならない。
 それが出来るのはあなたしかいないのです、女王陛下!」
 朗々と波が広がった。それは微かな音を耳に残して何処ともなく消えていく。グリシーヌ・ブルーメー
ルを陽光が鋭く灼き、その金髪が燃えている。眼差しは海の輝きだ。
 花火は立ち上がった。黒いロングスカートが床に広がる。
「私の誇りとは、彼の愛した国と国民を守ることです。
 彼らが幸福に生きられる場所をこの地に築く、そのためにはなんでもしましょう。」
 その手に一枚の免許状を持ち、女王陛下が海賊の元へと階段を下る。