第二話 オンフルールの修道女






 埃を白く空中に描き出して、光の帯が差し込んでいる。木造の教会、天井に開いた穴から覗く蒼穹には
雲が薄く立ち上り、迫りくる初夏の足音が聞こえていた。扉を押し開く。錆ついた蝶番が軋むのも、その
後姿には届いていないようだった。まばゆさに霞んだ修道女の背中は、祭壇の前にひざまずいたままかす
かにも動かない。
 扉を後ろ手に閉め、彼女は息を忍ばせて床を踏んだ。履きなれない靴のかかとが高い音を立てる。する
と、祈る後ろ姿が弾かれたように振り返った。亜麻色の髪が翻る。そして、
 エリカは目を丸く見開いた。
 何も、エリカの口は発しなかった。互いに視線を絡めたまま息を呑んで、鳶色の目と青色の目が見つめ
あっている。グリシーヌは二度瞬きをして、それからゆっくりと片手を上げた。
「しばらくぶりだな、エリカ。」
 エリカは勢いよく立ち上がった。
「グリシーヌさん!!」
 叫ぶなり、エリカは一直線に教会を疾走した。弾丸の速さでエリカがグリシーヌに突進する。
「エリカっ!」
 床を蹴って飛び込んでくるエリカを、グリシーヌは腕を広げて抱き留めた。エリカの二つの腕が強くグ
リシーヌの首を抱きしめて、頬が耳に押し付けられる。
「よかった、私・・・どうしようかと思いました!
 城内で大暴れしたって、どういうことなんですか!?」
 大声が頭に響いて、グリシーヌは思わず顔をゆがめた。首が締まるくらいにエリカの力は強くて、身動
きなんてまるでとれない。
「殺されちゃったらどうするつもりだったんですか!!」
 力任せに揺さぶられて、グリシーヌは思わず苦笑した。海から帰るといつもエリカは怒るけれど、今日
は特別激しかった。笑ってごまかすのは難しい、グリシーヌは視線を天井にあいた穴にそらしながら歯切
れ悪く答えた。
「女王に話を聞いてもらいたかったのだ!
 ただ諾々と従っては、一笑に伏されるかと思っ」
「殺されなかった方が奇跡ですよ!
 何考えてるんですか!
 グリシーヌさんのばかぁっ!!」
 怒鳴ると、エリカは腕をぐっと伸ばした。ほんのわずか、腕の距離で二人はようやく向き合った。痩せ
たエリカの眦にはわずかに涙がにじんでいる。グリシーヌはその頬に手を伸ばすと、目を細めた。
「無事に戻って来たではないか、そなたの元へ。」
 睫が合わさる音がする。
 ずるいですよ、消え入るような声でつぶやくと、エリカはグリシーヌの肩に額を押し付けた。

「もうこんな田舎でもすっごい、って評判聞こえて来ますよ!
 三ヶ月くらい前に、ル・アーヴルで一度招待公演っていうのかなぁ、
 そういうのやったのを見に行った人がいるんですけど、また絶対見に行きたいって!」
 エリカが手をぎゅっと握り締め、喜色満面に力説する。グリシーヌは椅子に背を預け、しきりに頷いて
先を促した。
「私も、マジカルエンジェル・コクリコ見に行きたいですよぉ。
 手紙はよくくれるんですけど。」
 伸ばした足の先を天井から落ちて来る空が明るく照らしている。洗いざらしの白いシャツにズボンを履
いて、まるで町人と修道女の雑談だった。
「本当に才能があったんだな。
 わずか数年でこんなに人気が出るなんて、うれしいな。」
 グリシーヌは頷いて、脳裏に素晴らしい芝居一座とその有名手品師の舞台を思い描いた。演技はまだま
だ修行中だという話だが、手品はそれはすばらしく手から虹を作り出したり、猫を虎に変えたりとその華
々しい魔法に国中知らぬものはいないとの話だ。
「ええ、あの子の人生がこれからもっと上手く行ったらいいなって。」
 天井に空いた穴からさまざまな街の音色が響いて来る。屋根にとまる鳥のさえずりから、通りを行く馬
車が轍を踏み越える音も、人々の交わす言葉も。それら全てを見下ろして蒼穹に浮く雲は午後の日差しに
輝いていた。
「そうだ、ロベリアさんは今、スペインにいるとかなんとか噂聞きましたよ!
 知ってました?」
 壊れた眼鏡のいけすかない顔がグリシーヌの目蓋の裏にフラッシュバックした。思わず片眉をつりあげ
て、グリシーヌは首を振った。
「いや。巴里にいるとかいつだか聞いた気はするが・・・。
 スペインか、行動範囲の広い泥棒だな、つくづく。」
 ねー、とエリカは上機嫌に頷いた。栗色の髪が肩口で跳ねる。
「去年一回、会いに来てくれたんですよ!
 十月くらいだったかなぁ、おっきなプロシュートの塊もって!
 それで、なんか私の部屋でごはん食べて帰りました。」
「そうか・・・。」
 相変わらずの二人のよく解らない関係に、グリシーヌは眉間に皺を寄せてこめかみを押さえた。自分と
ロベリアは彼女が人の船で泥棒を働こうと忍び入った時から続く犬猿の仲で、コクリコのことでいろいろ
あったときも結局最後にいつも通りに仲違いをして、つまりずっと仲が悪いままだが、エリカとロベリア
はなんとなく上手く行っているらしい。
「次、あやつに会ったら、ワインを返せ愚か者と伝えておいてくれ。」
「了解でーす!」
 ぴしっとポーズを決めて、エリカが元気よく笑った。
「それでグリシーヌさん、女王陛下に聞いていただきたかった話って、なんだったんですか?」
 来た、内心で待ち構えていたその質問に、グリシーヌは普段の表情を崩さぬまま、大したことではない、
と返事をした。
「わざわざ命を懸けて大暴れしてまで、聞いてもらいたかった話なのに?」
 エリカも普段通りの少しとぼけた表情で首を傾げた。古びた長椅子が軋んで鈍い音が立ち上る。グリシ
ーヌは掌をひらっと上に向けると椅子に凭れ掛かった。
「いや、エリカにとっては大した話ではないということだ。
 私のような海賊にとっては重大な問題だがな。」
 指を折り拳を作り、グリシーヌは口の端を海賊風ににやっと吊り上げて笑ってみせる。
「女王から、私掠免許を賜ったのだ。」
「私掠免許ですか?」
 眉根を寄せて、エリカがなめらかに復唱した。グリシーヌは拳を握ったまま、視線を祭壇へと走らせる。
割れた屋根から落ちる光の滝の奥に霞んで、十字架の救世主像が佇んでいた。
「あぁ、他国の船に海賊行為を働いても構わない、
 代わりに国庫に財宝の一部を納めよ、というありていに言えば海賊免許だな。
 その納める割合を下げてもらうために、わざわざ一暴れしてやったというわけだ!」
 斧を振るう時と同じに、腕を前に突き出した。霊力を解き放ち、一凪で兵士の壁を突き崩し、銃弾を逸
らして剣撃を弾くあの感触は数日経った今も生々しい。グリシーヌは殊更うれしそうに口を解いた。
「衛兵達を何十人も一気に倒してみせた時の女王の顔と言ったら!
 それは目を丸く見開いて」
「噂は本当だったんですね。」
 冷めた声音だった。
「え・・・っ。」
 振り返ると、エリカが笑うのをやめてグリシーヌを見つめていた。黒い修道服の腕を陽光があたため毛
羽立たせている。息を吸うと、それにあわせて服も膨れた。
「海をいく獅子は海賊免許を女王から与えられるのをよしとせず、玉座にその戦斧で乗り込んだ。
 しかし、驚くべきことに若獅子は女王に税の減免ではなく、
 一刻も早く国を一つにまとめろと進言した。」
 エリカは一息に言い切った。瞬きもしない目がグリシーヌの意識を穿つ。
「もう教会に来る子供も知ってますよ。」
 そうしてエリカは、泣き出す前みたいに目を細めて、微笑んだ。
 誰かに今すぐ、教会の扉を開けて入って来て欲しい。グリシーヌは思わずそう願った。だが、エリカは
口を噤んでグリシーヌの返事を待ち、いくら耳を澄ましても町の外れにあるこの教会を目指してくる足音
は聞こえなかった。
「だ、だからその噂が間違っておってだな・・・。」
 グリシーヌは床に一瞬視線を向けた。
「今、ちょっと右の方を見ました。
 それにちょっと言い淀みましたね。」
「そんなことはない!」
 思わず声が大きくなり、グリシーヌは顔を引き攣らせた。肯定したも同じだ、こんな反応は。エリカは
膝の上で手を重ねたまま、穏やかに言いきる。
「本当は私掠免許がそんなにうれしくない。」
 唾を飲み込む音が、自分の耳の裏に大きく響いた。
 二つの白い手がグリシーヌの頬に伸びた。包み込む手はやわらかくて、でも水仕事に荒れて指先は乾い
ていた。
「もう、6年の付き合いなんですよ。
 わかりますよ、そんな嘘。」
 声もなく頷いて、グリシーヌはエリカの掌に甘えた。細い指が金髪を耳に掛けてくれた。目を瞑ればエ
リカの手のあたたかさだけが世界にはあるような気がした。でもそうでないことを、グリシーヌもエリカ
もよく知っていた。
「あの屋根。」
 目蓋を押し上げる。色落ちしたズボンに置いた手、その甲には昔切った傷痕が薄ら浮かんでいる。
「誰も、直すことを買って出ないのだろう。
 頼んでもやってくれない。
 今が新教徒の世だからだ。」
 自分の手をエリカの手に重ねた。自分の手は、エリカの手よりも強ばっている。船を操り、斧を振るい、
銃の引き金を絞って来たから。
「先王は法王と絶縁し、カソリックからプロテスタントへとその身を翻し、カソリックを弾圧した。
 だから皆、例え信仰を持っていても、この教会に出資はしてくれない。」
 ここは小さな教会だ。昔、戦争の最中に建てられたから石工がいなくて、船大工に建てさせた木造の教
会。側廊部は船底と同じに竜骨が伸びていて、裏手にある海の音にいつも身を委ねている。
「当然だ。誰だって死にたくはない。
 火あぶりだなんてごめんだ。」
 エリカの目がグリシーヌの目を凝視している。見ているようで、でも本当は見ていないことをグリシー
ヌは解っていた。エリカにしたい話ではなかった、でも、エリカにはしなければならない話だと思ってい
た。他の誰でもない、エリカだけには理解していて欲しかった。誰でもない自分のことを。
「でも、おかしいだろう。どちらの信仰が正しいかを明らかにするために殺し合わなければならないのか?
 殴られたなら侮辱も甘んじて受け止めよと言っているではないか。
 他者をゆるすことが信じるべき黄金の愛で、そう思うからこそ信仰を持つのではないのか。」
 頬を包むエリカの手が微かに震えている。
「これでは、己が救われたいだけではないか。
 己の信仰とそれによる救済が脅かされると、自分が困るから。」
 エリカは唇を噛んだまま、何も言わなかった。眉間に力を込めて、ただ押し黙っている。互いの瞳の表
面に、互いの姿が映っていた。
 六年経った。
 自分達がこの手を初めて握ったあの夜から、もう六年だ。自分の手は硬くなった、エリカの手は乾いて
荒れている。きっと、二人にそれぞれ描いている景色はあった筈なのに。
「エリカ、私は・・・人は望む場所で生きるべきだと思う。
 望む場所で生きられる世でなければならないと思うのだ。」
 グリシーヌは強く、言葉を噛み締めた。
「あれから六年、私達は何か変わったか?」
 今も、目蓋の裏であの夜はちらちらと燃えている。


 1572年8月24日。
 夜明け前、朝の祈りの鐘は鳴った。巴里市はルーヴル宮殿に近いフランス国王教区サン・ジェルマン・
ロクセロワ教会の鐘は、国王の忠実な兵にかの提督の殺害を命じた。巴里のプロテスタント最大の指導者
は寝台の上で刺殺され、遺体は窓から投げ出された。暗殺者たちは国王と母后のためにその首を斬って立
ち去り、残された体を武装した巴里市民が切り刻んだ。セーヌ川の岸辺まで運ばれた胴体は絞首台で豚の
ように焼かれたという。
 サン・バルテルミの祝日であったその日は国土を巻き込む虐殺の日となった。地方にまで波及したカソ
リック市民によるプロテスタント市民の虐殺は、3万人にも及ぶ犠牲者を出した。投げ捨てられた死体で
セーヌ川は赤く染まったという。それから今日まで、フランス王国では国を割り宗教戦争が続いている。
 提督の首は教皇の元へ送り届けられ、教皇は国王に黄金のバラを贈った。カトリックは虐殺を神聖なる
懲罰であり、これを神に感謝すべきこととしたのだ。虐殺の報告は、かの敬虔なる神の息子スペイン王フェ
リペ2世さえ微笑ませたという。
 海を渡ったこのプロテスタントの国では違った。
 その不安は別の形で現れた。それは
「はぁっ、ぁっ、はっ」
 喘いで息をするのに、少しも空気が入ってこない。走る足が痛い、でももっと走らないと、立ち止まっ
たらもっとこわいことがあるわかってる。お腹も痛い苦しいでも、絶対に立ち止まっちゃいけない、ぜっ
たいに追いつかれちゃいけない。でもどこまで行けば逃げられるの。涙が滲んでいつもの町が霞んで見え
る、太陽が沈んでゆっくり青い夜の水に溶けていく町が。
 こわい。
「エリカ待ちなさい! 何も恐いことするわけじゃないから。
 ただ少し話を聞くだけだよ。」
 うそだ。
 後ろから追いかけて来る声にエリカは重たい足に力を込めた。彼らは、あの大人たちは自分と話したい
のではない、自分を捕まえたいんだ。そうしたら、自分は魔女になってしまう。ただ、友達の怪我を治し
てあげただけなのに、何もわるいことしてないと思っていたのに、魔女だって言われたら私は
 エリカの前から、通りを行く人は離れていく。もう足音が真後ろから聞こえて来る、ダメだ。最初は家
のベランダから飛び降りて逃げられたけど、もう、もう。
「こっちだ!」
 エリカの目の高さに手が飛び出した。その腕にぎゅっと掴まれて、エリカは狭い路地に引きずり込まれ
た。大人一人通るのがやっとな石壁の間に挟まったエリカを、誰かが路地の奥に突き飛ばした。
「くらえ!」
 響いたのは高い子供の声だった。
 エリカは尻餅をついたまま、濡れた目を擦ってその背中を見上げた。金髪を背に流した同じ十歳くらい
の子供が、積まれていた樽を蹴り飛ばして追いかけて来る人達を押しつぶした。
「にげるぞ、立つんだ!」
 弾かれたようにその背が振り返った。靡く金色の髪に、青い目が輝いている。麻のシャツに黒いズボン
を履いて、腰に巻いた帯にはたくさんの道具を差している。船乗りの男の子だ、エリカは差し出した手を
握られるまま立ち上がった。男の子の足は速い、ぐいぐい左手を引っ張られるままエリカは走った。建物
の間を抜けると、町の西に出る。空の端で残光が水平線にかかる雲を赤黒く焼いていた。黒く塗り潰され
た景色の中に、小さな木造の教会が太陽に焼け残っていた。
「きょ、教会が・・・っ!」
 エリカはひっくり返る息を絞り出した。男の子は真剣な表情で一瞬エリカを肩越しに振り返り、すぐさ
まそちらへと踵を返した。たった家数軒分の距離が無限のようにおそろしい。後ろから足音が聞こえない、
怒号も聞こえない、なのにエリカの掌はだらだらと汗を掻いていた。縺れそうなエリカの足を走らせる少
年が教会の扉を開け放ってエリカを中に押し込んだ。突き飛ばされてエリカは床に転ぶ、その背に、
「ああああっ!」
 悲鳴が突き刺さった。
 扉の外、暮れの町を穿って、少年が左手から血を零して叫んでいた。手首を握り締めて体を丸め、震え
ながら立ち竦んでいる。
「邪魔はしないでくれないか。」
 少年の奥に、抜き身の剣を提げた兵士が数人立っていた。中央に立つ背の高い兵士は右足を持ち上げ、
靴底で少年の肩を押した。蹴り倒そうとする力に、だが、船乗りの少年は引き下がらなかった。
「なにをよってたかって、女の子を追いかけまわしているのだ!
 はじを知れ!」
 自分の頬が変に笑ってしまっている、エリカは自分の表情がおかしいことに気付いた。泣きながら何故
か自分の唇が笑っていた、これはうそだゆめだ、この場で目を閉じてしまいたいのに、兵士のぶら下げた
剣の先ついた血が目蓋をこじ開ける。少年の左手から木の床に落ちる染みがエリカに呻き声さえゆるさな
い。
「魔女の疑いがある者は裁判にかけるんだよ、知ってるかい!」
 鈍い音が少年の体から響いた。腹部に入った蹴りに、少年の体が浮き上がった。喉から悲痛な音を吐き
出して少年が這いつくばる。その床に置かれた左手を革靴が踏んだ。
 金属味を帯びた絶叫が、その体から迸る。
 エリカは震える自分の体を抱きしめた。目蓋の縁から涙が新たに盛り上がって来て、頬を勢いよく零れ
落ちた。兵士は靴底で少年の傷口を踏みにじり、エリカを微笑んで見下ろした。
「治してあげられるんだろ、君は魔女なんだから。」

「私は海賊のまま、そなたはこの教会から出られないままだ。」
 グリシーヌの声は明朗だった。彼女の手はエリカの手を握り、二人の間に置かれている。六年、あの日
少年だと思った人は十六歳の少女となり、しかしその甲には今も、醜い傷痕が残っていた。ほの白くやわ
らかい肉が盛り上がり、もう他の肌とは違ってしまっている。
 レノ神父がエリカを庇護してくれ、この教会で引き取ってくれてそれでも、エリカはこの傷を治してや
れなかった。
「そうですね。」
 何もかも望んで、自分達はそれぞれこの場にいるわけでない。
 瞬きをして、彼女の眼差しが屋根から先、空を見上げる。彼女が海で生き海で死にたいのは、せめて自
分の命だけは自分の手にしたいからだ。自分の望んだ場所で生きたい、ずっと、初めて会った頃から彼女
はそう言っていた。
 エリカは掌を返して、グリシーヌの手を握り締めた。
「ただ、思う通りに生きたい、それだけなのに。
 どうして叶わないんでしょうね。」
 六年、自分は修道女となり、そして今も、両親が魔女狩りに遭わないためと、最後浴びせた冷たい言葉
を後悔している。

 日差しの色が変わろうとしている。二人、淡く色づいた教会に取り残されて、エリカはグリシーヌの言
葉を見つめていた。
「そのためには何より、国が安定しなければならないのだと、私は思う。
 近年は先王や王太子の死、後継者問題で国が一層荒れている。
 その根源である女王がどのような人物か知りたかったのだ。」
 息を切り、グリシーヌが空からエリカへと微笑んだ。
「それに、王が海賊の力を借りようなど、異例のことであろう?
 それで少し興味が湧いたのもある。」
 いたずらっぽく唇を歪めて、グリシーヌが肩を竦めてみせた。海賊のくせに酷く真面目な彼女と冗談を
言い合ったことなんてあまりないけれど、時折ちらりと見せる悪ガキっぽい表情が、エリカはらしくなく
て好きだった。そうですね、ちょっと変わってますよね、うなずいてエリカは目を伏せる。
「女王は確かにプロテスタントだ。」
 それは無限の断絶を表す事実だ。
 グリシーヌは信仰を持っていないから、その断崖の深さを知らない。それは未来永劫、時の彼方まで続
くものであり、魂の去就、存在の深淵にまで届くものだ。真実の者は最後の日に救われ、偽善者は地の底
へと落とされる。そう、この肉体に宿る生命の終わった後にまで続く恐ろしい隔絶だ。
 己こそ、正しい信仰の者でなければならない。
「ええ、そうです。
 そして、もう一人後継者を名乗る方はカソリック。だけど、」
 エリカは言い淀んだ。口にしていいことかわからなかった。真に修道女たるならば、断固として新教徒
を拒絶せねばならないかもしれない。カソリックたる継承権者が国を治めるべきだと、そう言いきらなけ
らばならないのかもしれない。だが、エリカの唇は重く、音を生み出すことはかなわなかった。
「だが、どちらが王となってもおそろしい。」
 抑えた声が響いた。体の底から湧き起る力強くも静かな調べだ。グリシーヌはエリカの目を見つめた、
覗き込むように。そなたが言えないことは代わりに言おうと、声なくその眼差しが告げている。
「だから、会いたかったのだ。
 信教がなんであろうと関係ない、ただ国を、その平和を願う者だけがきっと、すべてを。」
 重ねた手のひらが熱い。どちらのとも知れず、互いの肌の間で熱は大きくなる。エリカは目蓋を閉じ、
耳を澄ませた。透き通るような鼓動が指先から伝わる気がした。
「女王は、広く大きな誇りを持った人だった。
 民が幸福に生きられる国を作りたいと、それこそ誇りだと言い切ったのだ。」
 グリシーヌの手に力がこもる。
 エリカは目蓋を押し開いた。青く、輝きを宿す目がそこで笑っている。 
「私は女王を支持する。
 その為に海を巡り、かの女王に尽くそう。」
 潮騒がきこえる。
 彼女が生き死にだけを求めていた海原に、ひとつ輝ける日が昇ったんだ、エリカはまぶしさに思わず目
を細めた。
「そうだったんですね。」
 なんて、らしいのだろう。いつまでもエリカにとってグリシーヌはよき友であり、あの暮れの町でまっ
すぐ自分の手を引いて走ってくれた少年であり、そして、自分の前に立ちはだかってくれた小さな英雄だ
った。迷わない彼女の、迷わないまっすぐな笑顔が、いつでもエリカは一番に好きだった。
「あぁ、まずは新大陸を目指そうと思う。
 かの地を荒らす軍艦を討ってやれば、それはすばらしい財産になろう。」
 彼女は海をいく獅子となって、今、はるかに旅立とうという。
 曇りなく眼を煌めかせる彼女に、行かないで欲しい、きっと永遠に口にできない言葉をエリカは胸の底
に落とした。
「しかし、女王というのはすごいな。」
 グリシーヌの手が離れた。長い溜息をついて、彼女は椅子にもたれかかる。膝に腕をついて、額を手で
覆った。金色の髪が指の隙間からこぼれた。
「たった、私一人の命しか考えていない、私の小さな誇りとは大違いだ。」
 砂粒がその足元で乾いている。
 苦しい、ただそう思った。それを打ち砕くよう、エリカは握り拳を作って立ち上がった。
「そんなことありません! なんてこと言うんですか!!」
 声を荒げると同時、エリカはグリシーヌの肩を掴む。目を丸く見開いてグリシーヌが弾かれたようにエ
リカを振り仰いだ。
「エリカ、突然なにを!」
「いいからごめんなさいしてください!
 グリシーヌさんを馬鹿にしてごめんなさいって! ほら!」
 力任せにエリカはグリシーヌの肩を揺さぶった。よく鍛えたグリシーヌの体は腕だけでは思うように押
せなくて、体重をかけて渾身の力で動かした。グリシーヌの左手がエリカの腕を掴む。
「何故だ!
 そなたはよくわからんことを突然いいだしおって!」
 私はよくわかってます、胸中でだけ怒鳴って、身を構えたグリシーヌを揺さぶるのは無理だから、エリ
カはそのなめらかな頬に手を伸ばした。
「もう、言うこと聞かない子はこうです!」
 つねってほっぺたを引っ張ると、グリシーヌが怒る。
「ひゃめろ!」
「やめません!」
 掴まれた右腕も力づくで動かしほっぺたをつまむと、ぐにっと両側から頬をひっぱった。秀麗な容姿が
柔らかく崩れ、切れ長の目元が歪む。
「私はグリシーヌさんのこと、すごいなって思ってるんです!
 それを馬鹿にされたら黙ってませんよ!」
「なっ・・・!」
 面食らった様子でグリシーヌの手が緩んだ。エリカは引きはがされそうだった指を直し、より深く頬を
挟む。しまった、グリシーヌが悔しさを額に滲ませた。
「しょんなおおを言ったら、わたけしのおおがしょなたを・・・!
 ええい、放さんか!」
 痛そうな手ごたえをエリカの手に残し、グリシーヌは強引にエリカの手を引きはがした。真っ赤になっ
た頬が、伸び切った状態から勢いよく元に戻る。海賊らしい剣呑な表情で、グリシーヌはエリカの手首を
握りしめる。
「ここに来る途中聞いたぞ、エリカ、そなたとて評判のいいドジなシスターだそうじゃないか!
 あんなことがあった町で、そなたは逃げ出さずにまっすぐ生きている!
 私こそそなたを尊敬している!!」
 初めて聞く言葉だった。だがエリカは喜べも頷けもせず大声で叫び返した。
「そんなことありません!
 私はただ他に行き場所がないし、勇気もないから!」
 自分はずっとここで立ち止まっているだけだ。海に飛び出していったグリシーヌとは違う、ましてや理
想を求めて今、困難に立ち向かおうという彼女とは全く違う、その確信も悔しさも情けなさも持っている。
だがグリシーヌは怒鳴り返した。
「そなたこそ私のエリカを馬鹿にするな!」
「馬鹿になんてしてません! 事実です!」
 なんだとぉ! グリシーヌが立ち上がってぐぐっとエリカを押し返した。力では彼女にかなわないとわ
かっているがエリカは一歩も引かなった。腕ばかり押されてしまって体を退かないから、額がグリシーヌ
の額とかち合った。押し合うこと三秒、エリカは言い放った。
「決闘です!」
「望むところだ!」
 二人は外に飛び出した。
 教会の裏手、洗濯物が干され、木々の茂る裏庭の藪を駆け抜ける。背丈より高い雑草を踏み倒して斜面
を転げ落ちるような勢いで走り抜ければ、そこは小さな砂浜だ。小舟一艘停めるのが精一杯な砂浜へ、二
人で半ば転びながら突っ込んだ。弾んだ息が肩口で切れる。エリカはグリシーヌを振り向いた、彼女もエ
リカに目をくれて、そうして
 水しぶきを上げて、海へと飛び込んだ。
 茫漠と延々続く水平線を打ち壊して、二人の手が水面を掻いて海水を弾き飛ばす。腰まで水につかって
頭っから水飛沫をかけあう、その頬を水滴が流れ落ちていく。何百の水の粒に二人の笑顔と空と海が上下
さかさまに映っては海洋へと戻っていく。
「グリシーヌさん、霊力どさくさに紛れて使ったら負けですからね!」
「使わん! そなたなどこの二つの腕で十分、打ち砕いてやるわ!」
 一方的な負けのルールはあっても勝ちのルールは全くない。服が重たく濡れて肌に張り付いて、長いス
カートが水の中で膝に巻き付いて冷えていく。だが顔が熱い。息が鼓動が自分を貫いて蒼穹から地の底ま
で届くほどに大きい何もかも包んでいるように。
「くらえっ!」
 グリシーヌの手が海面を薙ぎ払った。
「負けません!」
 エリカは両手を海に突っ込んで二つの水の球を投げつけた。その足が砂の深みにはまる。
「あっ!」
 水が頭に背に降りかかる中、エリカの上体が前に傾いだ。エリカ! グリシーヌが名を呼んで駆け寄っ
てくる、その手を掴んでエリカは辛うじて立ち上がりかけ、
 転んだ。
 大きな水柱が上がった。
 海に全身呑まれたエリカを、腕が包んでいる。エリカはそっと海水の中目を開いた。地上からは濃紺に
見えた海が光を吸い込んで透き通っている。砂浜は水の底をずっと続いていて、水面はまるで銀細工のよ
うに輝いている。グリシーヌが瞬きを一つして、エリカを見つめた。結んでいたエリカの髪は解け、金色
の髪とわずか絡んだ。服に流れ込む水の冷たさの中で、繋いだ手の感触だけが、そう。
 海に包まれて、グリシーヌはエリカを抱きしめた。
 水に浮かんだ足の裏を柔らかな波の感触がさらっていった。
 大量の水をしたたらせ、二人は立ち上がった。空気中に上半身を出して、大きな息を何度も肩からつく。
「まったく、そなたには負けるな。」
 エリカの肩に顔を載せて、グリシーヌが疲れ切った様子で体重を預けた。エリカはその背に腕をまわし
て、自慢げに笑う。
「ふふ、また私の勝ちですね。」
 濡れた髪が頬に貼りつく。笑いの衝動か、息があがっているだけなのかわからないけれど、お腹が痛か
った。抱き合ったまま息をした。一つ、二つ、三つ、そうして、そうエリカは待っていた。グリシーヌが
息を吸った。
「三日後、ル・アーヴルから出る。
 数年は戻らないと思う。」
 自分を抱きしめる腕の力が強くなる。頬を耳に寄せられて、エリカはその細い背を掻き抱いた。
「必ず、戻ってきてください。」
 水が互いの熱を伝えてくれる。小さな海辺で、グリシーヌは波音に消されそうな声で呟いた。
「あぁ、必ず。」
 夕の気配を孕んだ陽を、水平線まで海原がまるで一つの道を作るように乱反射している。