第四話 海洋冒険譚へ






「海賊だああああああっ!!」
 絶叫が海原に響き渡り、半鐘が激しく打ち鳴らされる。雲が水平線に浮かぶだけの晴れ渡った海を、五
隻の船がまさに風の速さで押し迫る。
「砲撃用意!!」
 砲撃手が喉から号令を迸らせる。それは7隻の艦隊全てに伝播して、海賊船を迎え撃たんと砲門が開く。
風は強い。船長は帽子を片腕で押さえ、身を乗り出してその海賊船を振り返る。頂きに翻る真っ黒い海賊
旗、その骸骨には二つの角が生え、片方は荒々しく折れている。
「あれは・・・。」
 深い皺の刻まれた日焼け顔に、船長は笑みを刻み込んだ。その人生を海と戦いに捧げて来た男だけが持
つ獰猛な笑いだ。
「来たか、海をいく獅子!
 俺がその首くくってやる!!」
 船長は船員達を見下ろした。誰しもが早くも銃剣を手に取り、両眼を鈍く闘志に輝かせている。そう、
それでこそ我が国の誇り高き海兵、船長は腰から長剣を引き抜き、高々と白日の元に振りかざした。
「我らスペイン艦隊の力、海賊にみせつけてやれ!!
 いいか、船長は生かしたまま引きずりだせ!」
『おおおおおおっ!』
 雄叫びが一つのうねりとなってマストを突く。そして、12隻の船が互いの砲台の射程距離に入る。百
に届く砲声が鼓膜を砕き肌を破壊する迫力で鳴り響いた。

 七海を制すとさえ言われるその海賊を、知らぬ者はいない。

 鉤のついた縄が艦隊に投げ込まれた。砲撃と銃声の雨の中、海賊が投げ入れた火炎瓶のために船尾に火
の手が上がっている。弾薬庫にほど近いそこに水を掛けないわけにはいかない、いまや軍の戦力は二つに
裂かれ、戦力が拮抗する。
「火を・・・ふざけやがって!」
 歳若い兵士が奥歯を噛潰し唸った。船縁に体を隠し、筒の先から火薬と銃弾を詰める。仲間は乗り移っ
て来ようと言う海賊達を牽制し、あるいは倒し、あるいは倒されながら力と怒声を振り絞る。海をいく獅
子、その二つ名を知らぬ者はいまこの海にはいないだろう。彼とてよく知っている。

 この海で最も速く進む船を駆り、この世で最も海に愛される海賊。
 新大陸へと渡り、無敵艦隊をも蹴散らし、数多の金銀財宝をその手中に収める海賊団の首領。

 ふっと、彼の頭上を影が過った。それは銃弾を装填し終えた彼のほんの数メートル先に、まるでしなや
かな猫のように音無く降り立った。男にしてはあまりに小柄で線の細い後ろ姿だった。甲板にいた他の海
兵たちの視線がそこに集まり、そしてわずか静止した。
 銃弾と砲撃が降りつける中、それはまるで海風しか感じていないようだった。銃弾はまるでその影に当
たるのすら恐れるように、ただ甲板や荷に穴を穿つばかりだ。彼女は悠然と、手にしていた銀色の斧を振
り上げた。金色の豊かな髪が滝のごとく背を流れる。

 銃弾すら彼の者を恐れて頬を吹き過ぎ、
 振るう戦斧は背丈をも越え、一凪ぎで五人をも打ち破るという。
 彼を愛する海は大波でもってその仇敵たちを凪ぎ払う。

「撃てぇええええええ!!」
 船長の声が耳を劈いた刹那、反射的に彼は引き金を絞った。十数の銃声が一つに重なった。しかし、彼
女は悠然と振り返った。白い頬に笑みが過り、青い目が水面と同じにきらめいている。

 金のたてがみ、銀の戦斧、青い目をした彼を人は畏敬を込めてこう呼んだ。

「Grosse Vague!!」
 咆哮を解き放ち、戦斧が銀の弧を描いた。その叫びに呼応するように、巨大な波が海を起こした。悲鳴
を上げて尻餅をついたまま波を見上げる人々の顔を見下ろして、彼女はただ小さく笑った。

 そう、彼女を人はこう呼んだ。

 海をいく獅子
 

「チェストぉぉおおおお!!!」
 カンナが叫びながら、正拳突きをマストに叩き込んだ。力を伴う一撃は、その帆船の命を二つに砕いた。
軍人達の悲鳴と海賊の雄叫びを浴びながら、マストはゆっくり海へと倒れ込んでいく。

 襲撃が成功した夜は、宴会だと決まっている。
「いやぁ、今回も大収穫だねぇ、船長!」
 カンナは酒を流し込みながら、隣に座る大男の背中をばんばんと叩いた。グリシーヌは木箱の上で膝を
組んで、スペイン艦隊から取り上げたブランデーを眺めていた。ランプが甲板には幾つも灯り、他の船な
ど一つも見えない暗い海原をぽつりと照らしている。
「なかなかだったな。随分銀を積んでいたし、しばらくこの辺りで仕事をするのも一つ手だろうな。」
 仕事にアクセントを置いて言うと、酔っぱらった海賊達が高らかに吠えた。板を踏みならし酒をあおり
始めた海賊達を横目に、グリシーヌはブランデーを口に含んだ。木樽と強いアルコールの匂いが喉を焼く。
 船員達も伝えてあることが、今回の旅は長くなる。まだ見ぬ富と栄誉を得るためだ。いまだ、コロンブ
スしかなし得たことのない、世界一周の旅。過酷なものになるだろう。新大陸の最南端を通り抜け、太平
洋と呼ばれる大西洋の何倍もの広大な海を渡ることになる。
「おおーっし! アタシと勝負だーっ! かかってこい!!」
 カンナが皆の中心で拳を振り上げた。武器を使うのは得意ではないが、素手での格闘術で彼女に適うも
のはいないだろう。だが二対一ならなんとかなるかもしれない、二人の男が袖を捲り、入れ墨の入った腕
を橙色したランプの明かりに晒した。カンナは「上等!」と機嫌良く飛び跳ねると、腰を落として戦闘の
姿勢を取った。
「よくやる。」
 グリシーヌは呟くと、ブランデーを木箱の上に置いた。流れ込む影と明かりが、琥珀色の液体の中で揺
れている。世界を一周回りきる頃、いったい幾つの声がこの船には残っているだろうか。グリシーヌは左
手の甲を握り締めると、足を投げ出して樽に寄りかかった。爪先が船首の方を向く。
 ランプの明かりが途絶える船首の暗がりの中、夜の海を切り取ってひとつの小さな影が見えた気がした。
グリシーヌは目を瞬くと、身を乗り出した。影がわずか動く。

 銃声が海を引き裂いた。

 残響にけたたましく木をたたく音が重なった。
 カンナが、投げ飛ばされた男が、酒瓶を振り回している半裸の男たちが、すべての視線が暗がりとそし
て船長がいたはずの空間に向いた。木箱の上、それまでくつろいだ様子で座っていた小柄な船長の姿がな
かった。ぽっかり空いて夜の海がその先に広がり、ただ赤黒い液体がその場に飛び散っている。
「グリシーヌ!」
 飛び出したカンナの足はしかし、間髪入れずに停止した。前のめりにかかる体重を脚力でもって後ろに
思い切り引き、奥歯をかみしめて上体をその場に留める。その鼻先を光沢が駆け抜け、伸びた髪の数本を
散らして行った。カンナはその軌跡を目で追った。何か小さなものが、夜をひっかいて宙を飛んでる。そ
れは大きな弧を描き、やがて船首へと戻っていった。
「何者だ!」
 カンナはそちらへと向き直った。酒臭さの溜まる静けさの中に、金属音がそこかしこで点る。赤ら顔の
海賊達は眼差しを鋭く研ぎ、腰に帯びた獲物へと手を伸ばしていた。
 首の裏に冷たい汗を掻いている。カンナは息を引き絞り、筋肉へと力を注ぐ。船首はランプの明かりが
届かず、何者かの気配はわかっても目には暗闇しか映らない。スペイン艦隊と接触した時に何者かが紛れ
込んだのであろうか。多くはないはずだ、この船に隠れるところはあまりない。銃声と今の投擲から考え
て少なくみて二人、多くてせいぜい五人だろうか。他の四隻にもいるとしたら、最大二十人ということに
なるのだろうか。
 いや、数は問題ではない。
 カンナは拳を握りしめた。そうして、己の鼓動に意識を集める。そこから大いなる流れが腕へと伝い、
膨れ上がるイメージを作り上げる。拳に不可視の炎が熾る。
 霊力の灯だ。
「出てこい!」
 確信を抱いてカンナは怒鳴った。そう、潜んでいる彼らにはこの霊力の輝きが見えるのだ。なぜなら、
意識せずとも弾丸の方向を捻じ曲げるこの霊力を貫いてグリシーヌを傷つけたからだ。潜む何者かは同じ
力を持っている。
 軽い足音が甲板をはねた。小さな人影が明かりの元に翻る。
 緊張を解かなかったのは、ひとえに経験からくる体の反射でしかなかった。剣を抜き放った海賊たちが
油断なく構えながら、ぽつりと何事かつぶやいた。カンナの耳にははっきりとした言葉に聞こえないそれ
は、しかし聞くまでもなくわかっている。カンナの胸にも去来した一つの言葉だからだ。
「金の銃と銀の銃、どっちで撃たれたい?」
 満面の笑みを花開かせて、十歳そこそこの小さな少女が二丁の銃をその手に構えて立ちはだかった。長
い黒髪を二つの三つ編みにし、刺繍の入ったマントに体をすっぽりと包み、まるで暖炉の前に座る幼子の
それだ。大口を開けて彼女は無邪気に大笑いする。
「お宝と賞金! それと船!
 もらいに来たぞ!」
 舌ったらずに宣言し、銀色の銃をカンナに向けた。
「ちっちぇのにずいぶんな自信だな!」
 返事をしながら、カンナは目測で距離を見る。この世のどこよりもなれた船の上だ、きっかり8歩で自
分の拳の間合いに届くだろう。グリシーヌがいた木箱へは左手へ五歩。敵襲であろうとなんだろうと、グ
リシーヌは隠れて奇をてらったりする人間ではない。痛手のために口が利けないか、気を失っているか、
死んでいるかだ。海へは落ちていないだろう、水音は聞こえなかった。
「友達は紹介してくれないのかい!
 いるんだろう!?」
 さっき、グリシーヌを撃った銃声は一つだ。小さな賞金稼ぎが目に見えて持っている銃は二つ。しかし、
あのマントの下にいくつかくしているだろうか。小柄なことを考えれば、多くて5つ。銃弾も火薬も詰め
なおす時間など与えない、8歩の間に最大七発の銃弾なら避けられるだろうか。ほかの船員たちも襲い掛
かればカンナに向くのは全弾ではないことを思えば、不可能ではない。
「お、リカ忘れてた! な、ルイスっ!」
 素直にうなずいて、船体右翼を子供は振り返った。船べりに張り付いた影が動く。それは近づいてくる
につれて、赤く長い髪を持つ男の形を取った。
「リカさん、いつもそうやって簡単に手の内を明かすのやめてください。
 おしごとが増えてしまうでしょう。」
 人の良い微笑を薄い顔に浮かべ、二十歳頃の男性がふらっと歩み出た。空っぽの手を体側に漫然とたら
し、まるで町に出たついでに立ち寄ったとでもいうような風体だった。剣も銃もその腰にはなく、武器な
ど隠せそうにもない薄い上着を一枚羽織っているだけだ。彼には何かある、カンナはそうとった。だが、
船長を撃たれて頭に血の昇っている海賊達には挑発だ。
「てめぇら、生きて帰れると思うな!!」
 刺青の海賊が吠えた。熱が海賊達の間で膨れ上がる。違う、彼らは生きて帰れる自信があるのだ、カン
ナは拳に汗を握った。リカという少女がよほど強い霊力を持っているのか、それともルイスという男にも
力があるのか、もしくはその両方か。しかしそれでどうにかなるだろうか。グリシーヌのように海を動か
せるならば考えられる、もしくはカンナのように格闘術に秀でているならば。しかし、リカの持つのは銃
だ。銃は一発ごとに銃弾と火薬を詰めなければならない。いくつ銃を隠し持っていたとして、これから起
こるはずの乱戦にそれだけでどうやって勝つのだ。何か見えぬ秘策が彼らにはある。
 であれば、ただ突撃すれば痛手を受ける。
「お前ら! ここはまずあたいに」
 警鐘を鳴らすカンナを打ち破り、ルイスが高らかにほざいた。
「どうぞみなさん、子供とおまけ一人だからと遠慮せずいらしてください。
 何人いらしても変わりませんから。」
 荒くれる海賊達が怒号を張り上げた。「やめろ!」カンナの静止は激情の波にのまれて掻き消え、海賊
達は夜闇に白刃を閃かせた。

「How dare you!」

 憤りに満ちた絶叫が天上を貫いた。
 その声音がすべての意識を吸い寄せる。赤く血の落ちた木箱に、飛び乗る人があった。左肩から血を流
し、顔面を獰猛な獅子のごとく歪めて、彼女が立っている。彼女は腰に帯びた反身の剣を引き抜くと、正
眼に構えた。青い瞳が闘志に満ちて、二人の侵入者を見据える。
「私はグリシーヌ・ブルーメール。
 私自ら歓迎してやる、名を名乗れ!」
 手負いの獅子が剣に死を乗せて吼えた。
「リカリッタ・アリエスだ!
 じんじょーに勝負!」
 剣の切っ先の向こうで、リカリッタは笑って銃を構えた。 

 怒れる海賊共を納められるのはこの場でただ一人、そのたった一人が一時気絶していたのだか何にせよ
生きていて、そして今立ち上がったのは幸運とカンナが錯覚出来たのは一瞬だけだった。
「覚悟しろ!!」
 怒号を叩きつけるや否や、グリシーヌは並み居る海賊達を押しのけて一直線に駆けた。侵入者の戦力や
策略に気をつけろだなんて思考は彼女の背中には追いつけない。そう、この船で一番気が短く喧嘩っ早い
のは、船長であるグリシーヌに他ならないのだ。
「船長を援護しろっ!!」
 怒鳴るや否やカンナは隣の男から剣をひったくった。ガレオン船の一段高くなっている船首部へ向かう
階段は一つ、頭に血は上っているがそこに突っ込む程グリシーヌは愚かではなくそしてもっと短気だ。
「船長!」
 気合いと共にカンナは剣を渾身の力で投げた。腕の風切り音に銃声が一発重なる、手下の海賊達は二人
の意図を察して剣の軌跡を空けて、階段へと飛び上がる。ルイスが何か動作を起こす、カンナの投げた剣
は一段高く船首を上げている壁へと垂直に突き立った。その刃を蹴って、グリシーヌが一足で船首へ飛び
上がった。
「いけぇっ!」
 リカリッタが銀の銃の引き金を絞った。その銃弾はグリシーヌが胸の正面に立てた剣に弾かれる。リカ
リッタは二つの銃を撃ち尽くした、手摺から跳躍し、グリシーヌの剣は月光を纏って頭上に高々と振り上
げられている。マントの下に銃を忍ばせていたとしても、持ち返るに時は足りない。
「でやあっ!」
 グリシーヌは一刀を袈裟懸けに切り下ろした。刃の下でリカリッタはそれでも目を輝かせていた。それ
は死を恐れない狂気の目ではない勝利を確信している勇者の眼差しだ。果てしない悪寒に、グリシーヌは
振り下ろす腕の筋肉をねじりあげ、体を無理矢理横へと転がそうと足掻いた。しかし、殺しきれない勢い
がその生死を分つ時間を引き延ばす。
 リカリッタの親指が、銃身の末尾についた小さな棒を倒した。
 銃弾がグリシーヌの顔面を削った。右のこめかみから血が噴き出す。グリシーヌは衝撃に倒れそうにな
るのを傷ついた左手をついてこらえ、振り返りもせぬまま剣を真横に凪ぎ払った。切っ先は空を引っ掻き、
リカリッタは「うわわっ!」と気の抜けた声を漏らしながら数歩後ずさった。
 右舷で男達の悲鳴が巻き起こった。ルイスが何かを投げている。夜に吸い込まれて見えないそれは、海
賊達を縦横から切り裂いてその歩みを止めている。彼は暗器使いだ、そしてリカリッタの銃はグリシーヌ
達が知っているいかなる銃とも機構が大きく異なり即時の連射が可能となっている。板の隙間に顎を伝っ
た血が落ちるのを視界の隅にみて、グリシーヌはいまさらカンナが焦っていた理由に思い到った。左肩が
燃えるように熱く、頭が鈍器で殴られ続けているがごとく痛む。
 生理的に涙が滲んで来た視野の中心で、リカリッタが金の銃をグリシーヌに向けた。
「リカの勝ちだ! かんねんしろ!」
 海賊の本当の恐ろしさをしらない子供が勝鬨を上げる。船首部へとなだれこんで来た海賊達の動きをそ
れで止められると思うリカリッタは、海賊を相手にするにはあまりに幼かった。
「おりゃああああっ!」
 威勢のいいカンナの掛け声と共に、樽が大きな放物線を描いてリカリッタへと襲いかかった。
「うわわっ!?」
 リカリッタは勝利を肉声で告げるのではなく、銃声で告げるべきだったのだ。逃げ惑うリカリッタを尻
目にグリシーヌはぱっと床を蹴った。その横を気迫の塊が吹き抜ける。
「チェストぉぉぉぉおおお!!!」
 カンナの拳が木の樽を叩き割った。激しいアルコールの匂いを撒き散らし、中の酒と木の破片がリカリ
ッタに打ち付ける。そしてカンナは左手に、火の付いたランプを持っている。
「おまけにくれてやるぜ!」
 ランプが甲板で砕け散り、炎が刹那に燃え広がった。火は一息に酒を被ったリカリッタをも飲み込んだ。
「わわわわわわっ!!」
 そこら中を跳ね転がって、リカリッタはマントを大慌てで脱ぎ捨てた。マントの端を両腕で掴みばたば
たと床に炎を打ち付ける。足元を服の裾から転がり出たイタチのような生き物が飼い主と同じく慌てた様
子で駆け回る。リカリッタの細い肩を後ろから掴むと、グリシーヌは彼女を床へ引き摺り倒した。
「あっ。」
 ぽかんと自分と夜空を見上げ、リカリッタが目をまるくした。彼女の喉元に剣の刃を押し当てて、グリ
シーヌは無表情に口を開く。
「リカリッタ、海賊は勝利を手に入れてから笑うものだ。」
 こめかみの傷から溢れる血が顔の半分を覆って垂れ、一粒リカリッタの目蓋に落ちた。