第五話 旅路






 この国が克服しなければならない課題は少なくない。まず経済の成長だ。
「そうですか、続けてください。」
 花火は議場で話し合う大臣たちに、手のひらを見せて促した。オークのテーブルを挟んで議論を交わす
男達は従って会話を再開した。国庫にいくらもなこの政府は、経済を振興させ税収を伸ばし資金を獲得せ
ねばならない。財政健全が最も必要とされている。
「道路の整備を産業の拡大に先行して行うべきでしょう。
 この国は主要な経路ですら悪路が多い。
 城から郊外に至る道すら、雨の日は移動が困難だ。」
 鉄壁の男は言いながら、地図をテーブルに広げた。国全体が描かれた地図には、主要な街々をつなぐ道
路も記載されている。彼はインクの付いた水鳥の羽を持ち上げると、潰れたその先端を見て眉を顰めた。
彼はこの政権で初めて登用された人物だった。花火の父と同じ異国の出身であるが、鉄壁とあだ名される
にふさわしい手腕で評価を確立しつつある。
「なるほど。理想は馬車二台がすれ違える程度かね?」
 ロランが白い口髭を撫でた。鉄壁と呼ばれる男は、上機嫌そうに人差し指を振って見せた。そうして、
ポケットから小刀を取り出し、羽の先を削る。書きやすくとがったペン先をちらと一瞥し、彼はインク壺
に浸した。
「ええ、まあ少なくともその程度は必要でしょう。
 財政的にすぐ全てをやりきることは難しいですが。」
 彼が行っているのは、牧羊業の発展と毛織物産業の拡大だ。これまで農家や職人が独自に行っていた羊
の飼育と毛織物の製造を組織化し、生産力の向上をまず目指す。政府は組織化を促すためにそれぞれに協
会を作り、また毛織物工場を設営することでこれを実現しようとしている。ゆくゆくは毛織物を主な貿易
品の一つに加え、外貨獲得と雇用拡大を担わせる算段だ。
「喫緊の課題はここでしょうね。」
 彼は地図の上に惜しげもなく文字と線を書き連ねた。貿易港ル・アーヴル、首都、工場群、そして北方
の牧羊地帯を結ぶ道が太く地図上に刻まれる。インクに汚れた指先は港から工場群までを示す。
「この間は少なくとも馬車四台通れるくらいが好ましいでしょう。
 貿易業のみならず、国内産業の活性化にも交通整備は欠かせないものです。」
 それはゆうに100キロメートルを超える距離であった。その公共事業にいくらかかることか、考える
のすら恐ろしい規模に、「これはまた・・・。」ロランが言葉を失して押し黙った。花火は知れず唇を結
んだ。町と町の移動に欠かせない主要な道路ですら、馬車一台通るのも難しい場所や雨になると進めない
ような場所が数多く存在している。治安も悪く、盗賊や追剥も後を絶たない。いや、治安が悪いのは何も
街道に限った話ではない、この首都ですら女子供は夜に外を出歩くことはできないのだ。これらは商業活
動を妨げ、経済の発展を鈍くし、ひいては国の財政を苦しめている。
 彼は正しい、しかし。
「アンタは国の領土を売ったとしても、これをすぐにやるべきだと考えている。
 そうだね?」
 イザベラが愉快そうに笑うと、鉄壁の迫水はただ満足げにペン先を拭った。
 花火はそれらのことを思い出し、肩で息を吐いた。広間には今、音楽と踊りが満ちている。当国一の人
気を誇る劇団は、モザイクの床を舞台に変えて華々しく舞っている。輪の中心で、ひときわ目を引くのは
幼い東洋人だった。色のついた肌にまばゆい笑みを浮かべ、幼い少女はその指先から火花も虹も生み出し
ていく。
 マジカルエンジェル・コクリコはその名の通り、魔法をその身にまとっている。
 花火は微笑んで、膝の上に置いた手を握った。そうして、テーブルに置かれた銀の燭台に映る人影を盗
み見る。細長く歪んでただ藍色の線になっている彼は、変わらず隣に腰かけたまま舞台を楽しんでいた。
 この国に強力な財源は必要だ。それはよく理解している。そして、強い王権の回復も欠かすことはでき
ない。そうでなければ、
「素晴らしいですね、この劇団は。」
 隣に座る男が目を細めた。名をレオンという彼は、見合い相手にイザベラが選んだ人物だった。権力が
あり、財力があり、そして世継ぎも得られたならば、この国は安定する。それは反論しがたい事実であり、
手早くそして効果的な方法だ。
「えぇ、かわいい魔術師ですね。」
 フィリップを手早く忘れられるのならば。
 もう二年になる、あの嵐の海から。もう彼の喪に服し続けている場合ではない。でなければ、花火はす
ぐに退位すると考え軽んじる諸侯達を抑えることすら難しいだろう。教会ですら花火を侮っている。こん
なにも王権が弱体化しているからこそ、過日の隣国への派兵に少年までもが送られてしまうのだ。花火の
制止にも拘わらず。
 この島の北部に位置し、唯一国境を接するその国が領土を脅かしたためにやむを得ず行った派兵だった。
辛くも勝利をおさめたが、かの国からこちらが派兵した少年兵が書簡と共に生きて返された時、花火は
「滞在、楽しまれてくださいね。」
 微笑んだ花火の黒い睫毛に、小さな魔術師の作る火花が微かに照っていた。
 

 南風が吹いている。船の上を海鳥が鳴き交わし、船べりで魚釣りをする船員たちのおこぼれを今か今か
と待ち構えていた。水平線はけぶり、島影一つ見えない遠くからやって来た鳥達は大地にある因習や束縛
など断ち切って、ただ海の掟に乗っていた。
 船首中央に聳える帆が大きく風を孕んで、船は波間を滑るように進んでいく。水面は乱反射して眩しく、
群青色の海はその奥底までに幾億もの生命を内含して深い。グリシーヌは足を投げ出してマストに身を預
けて、ただ二つの青色だけが続く海原を遠望していた。
 新大陸南端を越えた西側の海は、眠気すらもよおすほどに穏やかだった。数日前に越えたばかりの南緯
60度の絶叫する海も、今やただの夢でしかなかったように。
「きゅー。」
 動物の微かな鳴き声が足元からあがった。随分と色の落ちたブーツの爪先に、ノコという白に黒いぶち
のついたイタチがすりよってきていた。つややかな毛並みが陽光を吸ってふくらんでいる。
「ノコ、おいで。」
 右手を差し出すと、ノコは軽い足取りで近づいてきて、湿った鼻先を押し付けた。グリシーヌはやわら
かな毛並みの喉元をくすぐるように撫でた。
「あー! ノコいたーっ!!」
 その快活な声は、マストに上がる網から降り注いだ。グリシーヌの太ももに前足を載せていたノコは彼
女の左腕をつるす三角巾を駆け上がり、肩にくるっと巻き付いた。
「リカ、なんだそんなところからノコを探していたのか。」
 分厚い帆を貫いて、太陽が輝いている。マントなど脱ぎ捨ててまくり上げた袖から出る腕が日に焼けて
いる。網梯子の最後2メートルを飛び降りると、二つの三つ編みが元気よく跳ねた。
「ん! ノコが一番リカと遊んでくれるからなっ!」
 まあるい子供の目が、グリシーヌの右肩に注がれている。ノコが金色の髪の間をすり抜けて、耳たぶの
下から顔をのぞかせていた。頬に触れるひげがくすぐったくて、グリシーヌは自然と笑った。 
「それはすまなかったな。
 そのうち嫌でも軍隊や兵士と遊べるから期待しておれ。」
 リカリッタは「そーだな!」と頷くと、ノコへと手を差し出した。ノコは滑らかにグリシーヌの肩から
リカの腕へと飛び移って、その頭のうえに顔を乗せた。短い尻尾がぺちぺちとリカリッタの頬をたたいて
いる。
 順風に、四隻の船は軽快に走っている。リカリッタは肩越しに、船の行く手を振り返った。後ろから吹
き付ける風が鬱陶しく顔を掠める。その黒髪の下で、リカリッタは眉をひそめた。
「ジャン班長がリカの銃まだ返してくれない。」
 唇を尖らせて、リカリッタは空っぽのホルスターを掴んだ。くたびれた皮は幼い手でも容易に握り潰さ
れて、歪に軋んだ。その目が一度、傷の治りが遅いグリシーヌの左腕を見たけれど、二人は離れていてグ
リシーヌは頭も撫でてはやれなかった。
「ジャン班長は根っからの技師だからな。
 もう少し貸してやってくれないか。」
 職人気質の彼に変わって頼むと、リカリッタはほっぺたを膨らませた。
「あとちょっとだけだぞっ。」
 太い眉をきりっと寄せて言う、幼い仕草がとてもかわいらしい。グリシーヌが海賊になった年頃とそれ
ほど変わらないだろうに、あふれる無邪気な素直さがとても好ましかった。
「ありがとう、リカ。」
 照れたようにわずか頬を染め、リカリッタは甲板中央へと駆け出した。その背中がマストの影で見えな
くなると同時に、明るい声は船いっぱいに響き渡った。
「ルイスー! 鳥だよ鳥!
 晩ごはんはー・・・お肉だっ!!」
 お、ルイス母さんがんばれなどと、男共の野太い野次が上がる。湧き起こった喧噪を聞きながら、グリ
シーヌは目を瞑ると目蓋の向こうに青空を仰いだ。
「エリュシオン。」
 それは古くから語り継がれる神話の名だ。エリュシオン、またの名を幸福諸島という。芳香に包まれ、
久遠の春にあり、病気も老衰も苦労も戦争もないその楽園では、オリュンポスの神々に愛された英雄達の
魂が暮らすという、世界の西の果てにあると言われる島。遥か昔から人々はもとめ、そしてこの大航海時
代に至った今、その発見の望みも高くその島を探す者はあとを絶たない。
 リカリッタがこの首にかかった賞金と船で辿り着こうとした島。亡き父の残した銃を手に、ルイスと二
人で。
 目蓋をグリシーヌは押し開いた。突き抜けるような青空が横帆に煽られて太陽まで続いている。その下、
海をいく船は四隻きりだ。あとの一隻は、新大陸南端の嵐の海で消えてしまった。止まない暴風と高波に
砕けて、鈍色の海の底へと。まだ生きていた船員達といっしょに。
 今までの航海で失った船員だって少なくない。一般の商船ではない海賊船だ、命のやり取りをする覚悟
で誰しも船に乗っている。他人の命も、自分の命も。縛り首になって岩礁に晒された者だっていた。自分
が命を奪った人間だっているのだ、戦いの最中に、略奪の最中に。私掠船だと言ったところで、ロベリア
の言った通り海賊など多くの者から恨まれる畜生にすぎない。
「誰もいないだろうな。」
 海鳥が太陽とグリシーヌの間を過った。目映さが弾けて、グリシーヌは思わず右手を翳した。
 神話の島などあるはずがない。だからもののついでだ、船は西へ進むからエリュシオンを探すなどとい
うのは、その方角に進むうちたまたま見つかればそれでいい。見つからなくてもかまわない。あったとし
て、海賊など一人もいるはずないのだから。
 波を一つ乗り越えて、船がゆれた。首が振られて、グリシーヌは息を一つのみこんだ。三角巾からはみ
出した左手の甲には、何年経ってもなくならない醜い傷痕があった。
 英雄達の住まう楽園に、海賊などいけるはずもない。
「叔父上。」
 ささやいてグリシーヌは掌を握り締めた。船の後ろではリカリッタ達が歓声をあげて、カモメに網を投
げている。